九十一番目の伊吹山

<緑染爺、閑居しても暇を楽しめず、伊吹山で気分一新が図れるのか?> 1999/3/19-21
                                 
 残雪の春山を心に描いて、3月の伊吹山にテントを背負ってやって来た。東京駅から東海
道在来線の夜行快速を大垣で乗り継ぎ、目覚めきれないうちに近江長岡に着いていた。
 次のバスまでの小1時間、人気の少ない駅周辺を歩いてみたが、街路を走り抜ける車は、
速度を落とさず、脇をかするかのようで怖い思いをした。
 橋の上に佇んで見上げた伊吹山は、こげ茶色の山肌を見せ、雪がほとんどついていない。
 「まいったぞ。水を担ぎ上げなければならないが、1.5リットル一本で賄わなければなら
ないのかー!」と思った。でも雪がないからラッセルも無いし、1泊だけで下りてこられる
だろうから、案ずることもなかろうと思い直した。
 大気に湿り気があって雲も厚く、天気は下り坂を予告しているようだった。
 
 人件費削減のターゲットとなり、6つ目の会社から退職勧奨を受けて、昨年末に離職した
後は、再就職の運動も実らずに、あれよあれよとここまで来てしまった。拘束のない休暇
中と考えられれば良い訳だが、失業の体験がなく、でんと構えることが出来ない。
 過去31年の結婚生活で、職も無く無為に過ごすのは始めてだが、正月の気分が薄れる頃
には、何とも居心地の悪い毎日となってしまった。
 
 職に縛られて忙しくしている時には、あれもしたいこれもしたいと時間の不足を遣り繰
りして、仕事を忘れるような遊びを大切にしてきたのに、図らずも自由時間を得た今、そ
の暇を楽しめないとは驚きだ。
 一つの要因は、狭い住環境である。カミさんの目に触れる空間に、普段いない連れ合い
がウロウロして、気になって仕方が無いらしい。
 文句を言われた訳でも無いのに、その戸惑った雰囲気が伝わってくると、自分の気が晴
れなくなってしまう。これではお互いにストレスが貯ってしまう。
 
 2月が終わろうとする頃には、この生活を長くは続けられないと思い知った。自分の性格
を反映して、普段も素っ気無い関係だったが、こんどもなんだか温もりの無い夫婦の絆だ
と実感している。
 自分ではあまり意識したことがなかったものの、時々「情が無い」とか「思いやりに欠
ける」とか言われているのはこの辺のことらしい。原因は自分が作っているのに、いつの
まにか周りが悪いと言わんばかりの非難顔を向けるようだ。
 間の悪いことが重なって、夫婦間でもう一つの感情摩擦が起きてしまった。我が家のポ
ンコツ車が車検切れになったら、後釜をどうするかについて意見が別れた。
 私は先行き不安の我が家の財政を考えたら、ほどほどの中古車が適当と主張したのに対
して、中古車は不安で運転する気にならないと応酬があった。運転席、助手席のエアー
バッグは必須と譲らない。
 私も頑固さが頭をもたげ、新車だから安全なのではない、安全運転するなら新車も中古
車も大差ないと反論する。こうなると感情のぶつけ合いになってしまった。
「最近また足が痛い時があると言っているのに、私が安心感を持って車で動けるような、
思いやりを見せてくれてもいいのではないか」と食い下がられるようになると、子供もカ
ミさんの加勢に回り、旗色が悪くなってしまった。
 この後も色々あったのだが、私が折れないなら、福永法源の会に注ぎ込むとまで過激な
発言に出会い、ついに負けてしまった。
 3台目の車選びは、そんな騒動の結果オペルの新車、VITAに落ち着いた。勿論色はグリ
ーンだ。
 
 こんなことがあったので、偶にはすかっとしたくなり、九十からすっかり伸び悩んでい
る百名山に矛先を向けたのだった。
 
 登山口からしばらくは、日の差さない参道のような通路だったが、一合目で抜けてスキ
ー場の底に出た。閉ざされたレストランを横目で眺めながら、雪の無いスキー場の斜面を
通り抜け、二合目で一息入れた。
 犬を連れた夫婦らしい一組が通りすぎた。
 直感に逆らい道標通りに進むと、倒木に遮られ大ザックが枝にひっかかって難儀した。
今年の雪は湿っていて、きっと重かったのだろう。
 やっとのことで抜け出すと、すぐ足元に斜面を迂回しているトレースが見え、何てこと
はない直感に従っていれば、障害物に会わずに済んだのだ。
 三合目、四合目も肌を剥かれたスキー場を、突き切るように通過していった。気温が一段
と下がって、雪が舞い始めた。五合目の閉ざされた土産物屋前に平な場所があったので、
迷わずテント地にきめた。張り終わってもぐり込む頃には激しさが増し、見る見る雪が積
もっていった。
 昨夜の夜行疲れが出て、瞼が重くなってきた。今日はもうすることも無いので、昼寝にした。
 夢の中で入れ替わり、立ち代り大勢の人に非難を受けたような気もしたが、目覚めた後
はどんな内容なのか思い出せないでいた。
 降り続く雪がしっかり積もって、水の心配がなくなり、溶かして出来た「お冷」を心置
きなく飲んだ。
 
 4時半起床で6時前にテントを出た。荷はサブザック一つで足も軽く、一合を約16分
のペースで進み、肩のあたりの固く凍った雪をキックして抜け出たら、強風に見まわれた。
 残念なことに視界がほとんど得られない。飛ばされてくる雪の粒が顔をたたき、平らな
頂上の三角点、地蔵、倭武像を巡るのも足がよろめく始末だ。
 建物の陰に風をよけて口にした、テルモスの紅茶がうまい。
 しばらく待っても視界が開けず、早々に引き上げて肩から降りると、風をまともに受け
ず、ようやく人心地がついた。
一心に登ったり、風にもてあそばれたりしている時は、鬱々としていた日々のことなど、
全くなかったかのように、新鮮な緊張感に満たされて、今度もまた山に癒された気がした。
 
緑染爺午坊

 

安達太良山 くろがね小屋の歌声

  1998/9/21
現在私が所属する文京区の中高年ハイキングクラブでは、山に行って皆で歌を歌う雰囲気はないが、
昔いた高校山岳部でも大学山岳部でも、山で歌を歌うことが割合多かった。
 
学生時代は山の合宿があると、明日は下山という夜、食事の後で「紅茶会」が持たれた。
夏は焚き火を囲んで、雪山ではイグルーや雪洞かテントの中で、月餅や羊羹など合宿の最後まで残し
ておいた貴重なお菓子を配り、紅茶を沸かして皆で歌を歌った。山にはウィスキーボンボン以外のア
ルコールを、持ち込まない伝統だった。
 
歌集は自分達で用意したが、多くは先輩から引き継いだものをコピーした。8音階以上の音階を持っ
た先輩に教わると、何が正調か分からなくなり、長い間にはオリジナルから外れてしまったものもあ
りそうだ。
この紅茶会は、歌集に載せて皆で歌う、隊用の歌だけではなく、個人用と称して、少なくとも一人一
曲は、披露することになっていた。
私は個人用の蓄えが少なく、演歌とは少し趣の違う、NHKの新曲歌謡や深夜放送の新曲
紹介を聞き覚え、何とか新味を出そうとした。
 
しかしそうやって覚えた歌も、今は記憶が薄れて切れ切れの歌詞しか出て来ない。
吉永小百合の「ふんわりふんわり牡丹雪...」とか、紫倉麻利子(?)の「小雨に濡れた捨て小舟、
渚を一人行く私...」など、今はもう思い出せなくなっている。
一年生の春山合宿で風邪を引いてしまい、白馬大池に一人テントキーパーをしながら、一回だけラジ
オで聞いた、真理ヨシコの「目を閉じては駄目、幸せになるならー...」も、いつか巡り逢えたら
と思っていたが、その機会は訪れなかった。
そんなこんなで、私の山にまつわる歌の想い出には、少なからずセンチメンタルな味がする。
 
小学校・中学校の同期生6人が集まり、秋の安達太良山を訪ねて、くろがね小屋に泊まった一夜は、
往時の山仲間や、自分の青春時代を思い出させてくれる、ちょっとしたイベントが用意されていた。
夕食後のひととき、宿泊客のほとんど全員が食堂に集まって、橋本さん(小屋の管理人)のハーモニ
カを伴奏に山の歌に興じた。
配られた手作りの歌集は、歌詞だけでなく音符がついており、オカリーナを独習している私には、た
いそう眩しくみえた。
というのは、昔の記憶をたどって、吹いて見たい曲があっても、なかなか楽符が手に入らないのだ。
ポツンポツンとピアノの鍵をたたいて、再現しようと試みるのだが、元々音楽の才が貧しく、どこか
に収まりの悪いところが残ってしまい、一曲に仕上がらないもどかしさを感じていたからだ。
 
何ページの何と次々出されるリクエストに応じて、ハーモニカ独特の響きに導かれ、気持ち良さそう
な皆の歌声が続き、そこはかと暖かいものが流れていった。
こういう時の人々の表情は、実に和やかで幸せだ。
 
たまたまこの日は、東北大ワンダーフォーゲル部の同期18人(52歳)が集結しており、中の一人
が持って見えた、当時の古い歌集からも、今はあまり聞かれなくなった曲のいくつかが歌われた。
その橙色の表紙の小さな歌集を見せて欲しいと頼み、およそ30年間大切に保存されてきたであろう、
宝物のような冊子を手に取った。
パラパラとページを繰っている時、アッと息をのんでページを抑えた。
以前から知りたいと願っていた、珍しい歌が載っていた。それは「蒙古放浪の詩」だ。
学生時代に2度ほど聞いて、馬賊か何かの男の匂いがしていいなと思ったものの、いつしか忘れ去っ
てしまった。
昨年暮れからオカリーナを自習するようになって、或る日何の脈絡もなく、この歌の一番の歌詞だけ
が頭に浮かんだ。しかし2番以降は、全く手がかりがなかった。
思いがけずもその歌に再会できて、なおしばらくお借りして、手帳に書き取らせてもらうことが出来た。
 
 「蒙古放浪の詩」
 
 心猛くも鬼神ならぬ 人と生まれて情けはあれど
 母を見捨てて浪越えて行く 友よ兄等といつまた会わん
 
 浪の彼方の蒙古の砂漠 男多恨の身の捨て所
 胸に秘めたる大願あれば 生きて帰らん望みは持たで
   朝日夕日は馬上で受けて 続く砂漠の一筋道を
 大和男子の血潮を秘めて 行くや若人千里の旅路
 
この日の泊まりは50人ぐらいだったろうか、中高年優勢ながら、音頭とりの橋本さんから「次は
若い人から、どうぞ」と振られて、3人の若い男が「夏の思い出」をリードした。
和気あいあいの内に、2時間近くが過ぎて、昔山で歌った懐かしの歌が、あらまし出たところで、
大事な歌集が回収され、お開きとなった。
 
小屋の温泉が体を温めてくれ、皆で歌ったことが心をほぐしてくれたのか、満足しきって床に就
くと、すぐ深い眠りに落ちていった。

緑染爺午坊
 
 

夏山・聖岳の想い出 1998/8/7-9

  赤石岳山頂から、次は聖岳と思って眺めていたのは2年前の8月11日だった。その聖岳
もいざ計画を立てる段になると、入山路が長いことや小屋設備の関係で、爺・婆ハイキン
グクラブには手強い山であった。2泊とも自炊となると自信がなく、ひとシーズン見送っ
て、福島から吾妻連峰に目標をかえた。東吾妻山から一切経、家形山を経て西吾妻山へ抜
けるのに、初日の吾妻小舎の後は、弥兵衛平避難小屋に1泊して自炊を予定した。
このクラブは自炊と聞くと尻込みする人が多く、参加者の集まりを心配した。
幸い8人の申し込みを得て、寝袋の準備も整い、避難小屋で自炊の経験を積むことが出来た。
これなら聖岳も大丈夫と自信を得て、新年会あたりから誰彼となく、この夏は聖に行くぞ
と前宣伝に努めた。
赤石岳の時は3泊4日を当てたが、今回は自分の都合で2泊3日しか割けず、静岡県側か
らのアプローチを諦めて、飯田から入って便ヶ島登山口を選んだ。
便ヶ島の小屋は何年か前に、無料送迎サービスをしたことから、営業停止処分を受け、
行ってみたら殆ど取り壊されており、避難小屋としての役にもたたなかった。
その替りではないだろうが、聖平小屋が食事を出すようになり、上まで重荷を担がなくて
良いと分かったので、クラブ初のテント泊を目論んだ。
テント3張り、ツェルト3張りは見込めたので、12、3人は大丈夫と踏んだ。
いざ申し込みを募ると、予想を裏切って想定した顔ぶれが揃わない。直前の7月山行、
平標山の登り方がきつかったとの風評が立って、敬遠されてしまったようだ。クラブから
6人とMJジュニアの特別参加1人が足されて7人となった。
ところが締め切った直後に思わぬ応募を受けた。
7年前に鳳凰三山で偶然拾った、NI夫妻が南アルプスには縁があるのか、参加したい旨
受け付けに連絡がはいった。
Mさんの「無理かも知れませんよ、でも担当に聞いて下さい」の返事にもめげずに、Iさ
んに相談したNI夫人の場合、変な知恵をつけて、行きたいのに臆して言い出せない常連
と違って、「行きたいっ!」という気持が迫って伝わった。
2年前の早池峰を一緒して以来、しばらく二人の歩き振りを見ていない不安はあるが、限
度を悟る知性を持つ二人だから、たとえ登れずに小屋で待機となっても、納得してもらえ
ると思って受け入れた。
サブリーダーに相談もせず、独断で決めたことが多少MJさんを傷つけたようだった。
私自身がNI夫妻を好きだから、受け入れたのだとクラブ雀共はまた噂するに違いない。
それは本当だから、開き直ってしまおう。誰だって好きな人達なら面倒みるのも苦になら
ないものだ。
まあその為にサブリーダーの心理的負担が増えるのだから、相談ではなく、お願いをすれ
ばよかった。他人を思いやる気持が薄いと言われるのは、この辺の機微を無視するからに
他ならない。
 
さて、飯田からチャーター・リムジン2時間のドライヴの後、便ヶ島から9人が一列縦隊
となり、水引とフシグロセンノウの咲く道を進んだ。突如Kさんが悲鳴を上げた。支沢の
渡りで、ズボンの裾をぬらさない様に折り返したらしく、何時の間にかその隙間から、
アキレス腱のあたりに蛭が食いついていた。MJさんが摘まみとろうとしても、なかなか
はがせない。ようやく千切り捨て、献身的なMJさんがかまれたところの血を、少しばかり
口で吸い出した。これにより義兄妹の契りが出来た。
Kさんには気の毒ながらこの蛭騒ぎによって、南アルプスの奥深く分け入れ、聖に登り始め
たのだという実感が強まった。
西沢渡では水量が多くて、濡れずには渡れそうもなく、荷物用のモッコ渡しを使って渡った。
二手に分かれて偵察を出し、渡渉点より少し下流に見えた河原と、西沢渡の元営林署小屋を
チェックした。無人小屋は大きく、十分使用に耐えるものだが、木や草が生い茂って明るさ
が足りない。河原は広く明るく、多少の増水にも流されない良い場所だった。
これで今夜のテント地がきまった。テント3張り、ツェルト3張り並べて設営すると、立派
なテント村が出現した。
水汲み、流木集め、炊事当番と役割分担もてきぱき進み、河原の宴会準備に忙しくなった。
合間を縫って交代で水浴びやら、汗拭きやらで着替えて、サッパリとするゆとりも持った。
I炊事班長、MJジュニアのシェフでビーフシチューが軽く炒める下拵えを経て、赤ワイン
を惜しげも無く注いで煮込まれていき、ガーリック・ブレッドも香ばしい。
空気の流れを考えたつもりが山風、谷風を間違えて、火付けをもたついた焚き火も勢い良く
燃えてきた。
平標山の特訓を積んでMRさんが持ち込んでくれた、アイスボックスのロング缶ビール6本
が抜かれ、乾杯する仲間の顔はにこやかだった。自分達だけの世界で、遠慮無くにぎやかな
宴を張って、キャンプの醍醐味に浸りながら、極上のビーフシチューを味わった。
食後のひとときを、流木から燃え立ち、踊る炎を目で追う内に、何時の間にか無念無想の状
態になっていった。下流に向かうと、V字に切れた空に星が尾を引いて流れた。
明日は降られる心配もなく、皆には就寝時間ですよといってテントに追い立て、追いかけて
くるはずのMBさんを待って、残り火を掻きたてた。
どのくらい待ったろうか、ヘッドランプの小さな灯かりが対岸で揺れ動いた。木の間を歩い
ている速度で灯かりが動いて、間違いなくMBさんだ。
声を上げ、こちらからもヘッドランプの光を集めて、居場所を知らせた。
動きの止まったランプが一呼吸して、その地点から沢へ降り始めたようだ。相当な薮をすご
い馬力で降りてくる。
程なく流れの向こうに大ザックの男の影が立った。躊躇することなく靴を脱ぎ、サンダルに
履き替え、流れを突っ切って山岳忍者はテントサイトに出現した。
便ヶ島に車を置いて、ヘッドランプの灯かりを頼りに、一人で追いかけてきたMBさんは皆
から握手攻めにあった。
 
早起きのMJさんが4時起床の声をかけて回り、朝が始動した。
朝食は溶き卵を落としたおじやと梅干しの簡素なものだが、よく捜すと里芋が入っていたり
で、味は格別おいしかった。
焚き火跡には一晩たってもまだ置き火があったが、火の始末を十分にしてテントを撤収し、
仮寝の宿を後にした。
西沢渡の避難小屋の上がり口に、テント、シュラフその他をデポして、軽くした荷物のパッ
キングをそれぞれ直し、聖岳への長い登りに取り付いた。
今日は10人の列になるが、久しぶりのNI夫妻は、トップを歩く私のすぐ後ろにした。
最長老のYさんの後ろには、MBさんに入ってもらった。これまでの経験でシニアの女性は、
若い男がすぐ後ろに付くと元気倍増して、良い結果が出るのだ。
樹林帯を黙々登るこの5時間は、荷物が軽いからいいようなもののなかなか厳しい。最後は
NI夫人の足が重くなって、聖平・聖岳の分岐に抜け出たところで、ここまでで十分との申し
出があった。
勢いからいって、今日の内に聖岳を往復したほうが良いと考えていたところなので、この申し
出は正直有り難かった。ここから聖平の小屋までは、ゆっくり歩いて30分で、天気も良く迷
う気遣いはない。残りのメンバーであれば、奥聖まで足を伸ばしても4時には小屋に入れるだ
ろうし、万一遅れたとしてもNI夫妻に予約を頼んでおけば安心だ。
NIさんは少し残念そうな表情とほっとした表情が混ざった顔つきだ。自分がギブアップした
のではなく、夫人に付合って残るのだから面子は保てたといいたげであった。
分岐から仰ぐと、透明なブルーをバックに前聖岳がぐっと上の方に聳えている。まだ相当登ら
ないとならない。
トリカブトの群落を通り抜けながら小聖へ向かう。少しだけペースを上げてみたが、全員快調
で続いてくれるものだから、あっという間に小聖のピークに達した。
MJさんが「腰の具合がおかしいからここまでにしようかと思う」と発言したのを聞いて言葉
を失った。
心得のあるMBさんが、MJさんの脚を引っ張って矯正したら、収まったらしい。
MJさんには是非登って欲しかっただけに、応急処置で救われた。
2つほど岩稜のこぶを過ごして、最後のガレ道を一歩一歩踏みしめて登るのだが、さすがに
3013メートルは手応えがあった。こちらの斜面には霧が出てきて、赤石岳が見えないので
はないかと危ぶんだが、降りてくる人達が「上に出れば視界がありますよ」と希望を持たせて
くれる。
ヤレヤレという感じで頂上に近づくとぱっと視野が開けて濃い青空が目にしみた。正面右にど
っしりと構えた赤石岳と対面できた。
一息入れてところで、奥聖の往復を先にしてゆっくりしようときまり、空身で稜線をたどった。
奥聖から赤石岳を背に撮影を終え、残してきたYさんの待つ前聖岳の頂上に引き返した。エネ
ルギー補給を夫々に行ったが、最後にゴージャスなデザートがSさんのザックから出てきた。
巨峰を一箱担ぎ上げてくれたのだ。
MJさんの腰も念のためもう一度Sさんが牽引して下山に備えた。

頂上から一下りしたところの小さなガリーから水が出ており、水筒に詰めたが試飲すると飲ん
だ直後にかび臭い味が残って、期待は裏切られた。
ひたすら下って短時間で、分岐点まで戻ってきた。重力に逆らわないと楽なものだ。
お花畑を分けて歩く聖平までの道は、今日のきつかった登りに対するご褒美のようなものだ。
トリカブト、オタカラコウ、マルバタケフキ、フウロ、アザミなどなどだが、トリカブトの鮮
やかな青紫の群落が圧倒していた。
聖平小屋の手前で、新調の雨衣を着たNI夫妻が出迎えてくれた。予想した通りの時間に着い
たとのこと、ビールを買って待っていたとは有り難い。
荷物を解いて着替えた後は、お定まりの野外の宴会とあいなった。
明朝は早発ちの必要が無くなり、リラックスした体にお酒は良く回った。
聖平小屋は寝袋を1000円で貸し出す方式と知らず、寝袋を西沢渡にデポして来たのが残念
だったが致し方ない。
 
朝食は4時半に出されたが、食後をゆっくりと過ごし、MJさんのモーニングサービスを楽し
んだ。山の朝をこんなにゆったりとした覚えはあまり無い。
聖平で上河内岳や遠くの光岳をひとしきり眺め、また小聖、前聖を仰いで別れを呟いた。
分岐から下りに入ると、このきつい登りを良く登ったなと自分で感心した。
3分の2降ったあたりで、NI夫人が足を滑らし、膝と大腿骨間接の軽い捻挫を起こしたら
しい。
そのまましばらく歩いたが、場所の良いところで、再びMBさんに応急処置をお願いした。
脚を引っ張って、少し回し気味にすると小さな音がして、大腿骨間接が収まったようだ。荷
物を分散して、大半はMBさんが担ぎ、空身になってもらった。
西沢渡も水量が減って難なく渡れたが、不安のある人だけ例の渡しを利用した。便ヶ島に戻
ったのは11時半、予約の車は14時半と3時間もあるので、テント、ツエルト、寝袋を干
して乾燥させ、一方残った食料を供出して、大昼食会を催した。
最後はトンネルをくぐって、支沢まで登り直して、水浴びをした。
2時間のドライヴで飯田に戻り、MBさんの車とそこで別れた。高速バス発車までの空き時
間を土産物屋に回ってくれたり、市内観光をさせてくれたり、最後はホカホカ弁当の面倒を
みてくれたりで、リムジンサービスの運転手さん様々だった。
飯田の街は大火にあって焼失したと聞くが、わずかに燃え残った場所に、元遊郭だった家な
るものがあった。街路樹には林檎が植えられ、1年に2度咲く桜の木に立て札が立っていた。
水引加工が有名で寄りはしなかったが、嫁入り衣装やかつらにも使われている高価なものが
美術館で見られるとのことだった。関取の元結いも殆どが飯田産と教えられた。
コンビニエンス・ストアで仕入れたビールが回ると、もう運転手さんの観光案内を聞く人も
無くなり、適当なところで打ち切ってお開きとした。
高速バスに乗った早々から車内小宴会になったが、最後は疲れておとなしくなって、それぞ
れの思いに浸ったり、眠りに就いた。
 
緑染爺午坊
 
 

師走の菰釣山を尋ねて / 西丹沢テント行

              1997/12/20-21 晴れ
                  吉田(記) 
 コースタイム:
一日目
 新宿・小田急(6:46) 新松田・富士急バス(8:25)大滝橋(9:25)支度10分 9:35発
 ー一軒屋避難小屋(10:40-10:50)ー畦ヶ丸頂上(12:15ー 12:40)ーモロクボ沢ノ頭(12:55)
 ー大界木山(13:30-13:40)ー城ヶ尾峠(14:05)ー幕営(14:45-15:05) ー菰釣山頂上(15:55-16:15)
 ー帰幕(17:05)
二日目
 起床(7:05)撤収・出発(9:00)ー城ヶ尾峠(9:30)ー大界木山(9:55-10:00)
 モロクボ沢ノ頭(10:35-10:40)ー(11:50-12:00)ー白石峠(12:35)ー加入道山頂上(12:55-13:30)
 ー分岐(14:30)ー大室山頂上(14:35-14:40)ー犬越路、用木沢降口(15:25-15:30)ー(16:00-16:05)
 ー用木沢出会(16:35)ー西丹沢自然教室バス停(17:00)ー新松田行き最終便(17:15)
 
 最近、山に行く日の寝過ごしが続く。目覚めたのは5時25分、池袋6時31分の埼京線に乗らなけ
れば間に合わない。顔も洗わずバタバタと飛び出した。重荷を背に時折リ小走りの努力が実って、石神
井公園駅6時04分池袋行きをキャッチした。車中の荒い息は、自分の歳を考えればみっともない限り
だが、ぱらぱらっといる乗客は、眼を閉じて視線を向ける人もいなかった。
 新松田からのバス車中、5合目付近まで白く輝く、大きな富士山が垣間見えた。左後方には二十日月
(寝待月)ぐらいの姿が薄白く残っている。この澄明な空の色ならば、一日良い日和が期待出来そうだ。
 大滝橋で降りたのは私達二人のほか、中年男性の単独行二人を足した4人だった。登山口の案内板に
は、予定していた大滝峠と城ヶ尾峠を結ぶ道を、閉鎖したというお知らせがあった。度々の台風で沢が
荒れて危険のようだ。危ないことは避けるに越したことはない。指示通り畦ヶ丸経由のコースをとるこ
とに決めた。大滝沢、マスキ嵐沢を通過して、一軒屋避難小屋に出た。いつも避難小屋に出会うとそう
する様に、情報収集と興味から立ち寄った。築後かなり経つと思うがきれいだった。風を通すというこ
となのだろうか、前後に引き戸があった。小屋脇でステタロー沢の水を水筒2本につめた。2.5リッ
トル分だけ荷が重くなった。
 畦ヶ丸への詰めの登りは崩れ易い砂質で、長くはないが重荷には辛い。頂上のセメント目地のケルン
は、裾周りが浮いて崩れていた。自然教室の方から、珍しく男ばかりのパーティが着いて、十四、五人
ほどが頂上でお昼を広げた。100メートル離れている避難小屋を覗きにいったが、ここもきれいに整
っていた。
 畦ヶ丸避難小屋の脇を右折し、そのままずんずん下って、登り返したところが、白石峠との分岐にな
るモロクボ沢ノ頭だ。明日またここまで戻ることになる。今日は通過して城ヶ尾峠に向かう。登り下り
の多いコースで、普段より重いザックが少しずつ腰にこたえるようになってきた。
 珍しい名前の大界木山に着く手前あたりで、パートナーの衰えぬペースに追い付けなくなった。頂上
で口にした一粒の飴の甘みが嬉しい。先客がいて、65歳ぐらいと見える元教師風の男が声をかけてき
た。
「ここの登り下りは大変ですね、どちらまで行かれるのですか?」
「菰釣山に向かって、行けるところまでいってテントを張ろうかと思います」
「避難小屋がしっかりしているから、テントより小屋を使った方が良いのではないですか、きれいな小
屋ですよ、今日は誰もいないでしょう、2時半には山頂に着くでしょう」
「この荷物だから、それは無理ですよ、そんなに早くは着かないですよ」
「天気はどうでしょうかね」
「予報では、今夜から冷え込むと言ってましたよ」
「明日は雨でしょうな」
ウムッ!と感じて会話を打ち切った。こちらの都合や不確かなことを、かなり断定的に言う人だなと内
心で苦笑した。長居無用、「お先に!」と腰をあげた。
 「お年寄りの一人歩きで大丈夫だろうか、僕も一人歩きはやめよう」など話しながら25分下り、城ヶ
尾峠では立てずにそのまま通過して、中ノ丸まで引っ張った。
 折角担いで来たテントを何処に張るか、そろそろ捜しながら行こうと思った矢先に、格好の平地が見
えた。一張分確保出来る。すぐにでもザックを下ろしたいと、オズオズ言い出した。一も二も無く連れ
の同意が得られた。
 真新しいポールは、雪の乗鞍岳で破損したポールを買い替えたものだ。枯れ葉のクッションもあって、
良い具合に張れた。
 ヘッドランプと財布、手袋、防風ヤッケだけの空身で菰釣山に向かった。避難小屋は横目に通過、こ
こから700メートルのはずだが意外にしつこい登りで、山頂到着は4時5分前だった。一眼レフカメ
ラを抱えたシニアと、三脚を据えた青年プラス一匹の犬が何事かを待っている。富士に夕日の沈む瞬間
を捉えようとしているらしい。沈みゆく太陽だが、未だまぶしくて直視出来ない。15分ほど待って日
の入りを眺めていくことにした。やがて富士の腰あたりに没し始めたが、赤い夕日とはならず、鏡のよ
うなピカピカのまま、回りの光が膨らんだり縮んだり呼吸していたが、見る間に山の裏に隠れてしまっ
た。なお裏側から照らしている。空はしばらく明るいだろう。この間に急いで戻ろう。
 帰りがけに覗いた避難小屋は、二人分の寝袋が行儀よく並んでいた。あの二人が戻る頃は、暗闇だろ
うから寝支度をして出たのだ。
 背後から追いかけられるように、空の光が失われていく。なんとか木の根に躓きもせず、闇がくる前
にテントに戻った。
 早速お湯を作って、お湯割りウイスキーをローストビーフ巻きやらポークハムのつまみで味わった。
数の子ワサビは大変辛くて、水のとれないこの場所では控えるべきだった。酔いが回って来たら、夕食
作りもいい加減面倒になり、お腹もそこそこ満たされたので、早々寝袋にもぐりこんだ。
 雲が出たらしく星は瞬かなかった。疲れがドッと出て、すぐに正体がなくなった。
 普通、山の朝は早い。4時起床も珍しくない。のんびりしに来た今回は、急く心がなくタップリ11
時間も寝て、起き出したときは7時を回っていた。
 「明日は雨です」と言いきった人の顔を思い出したが、こんなに晴れた朝を迎えられのだから、許し
てあげよう。
 テントを出て朝日を浴びながら、オカリナの練習を始めた。気兼ねなく吹く音は、伸び伸びしている。
梢の野鳥が合いの手を入れてくれた。こうして見るとオカリナは野外が似合う。試したことの無い曲ま
でチャレンジして、40分近く楽しんだ。
 食欲が目覚め、作ってもらった野菜沢山チャーメンの朝食がおいしい。何も手伝わずにありついて、
申し訳ない。貴重な水で濃い目の紅茶を立て、おかわりまでして口中がサッパリした。
 テント撤収、出発9時。昨日来たアップダウンの道を城ヶ尾峠、大界木山、モロクボ沢ノ頭と戻ったが、
幾組みも菰釣山に向かうパーティとすれ違い、自分達の出足の遅さにバツが悪い。この時間で登って来る
には、暗いうちから歩き始めたに違いない。
 甲相国境尾根は馬酔木が目につく。濃い緑の葉に花芽が赤く、彩りが良い。
 あんなに気分の良い朝だったのに、ここまで歩いてみると体が重く、足もだるいのには困った。口数が
減り仏頂面になって行く。それに引き換え前を行くKIさんは、今日も快調そのもの。
 水晶沢ノ頭手前の林に差し掛かると、小鳥の声が急ににぎやかになり、枝渡りする姿も見えた。裸の林
はバードウオッチしやすい。私は見逃したが、先行のKIさんは、黒い頭にネクタイ姿の小鳥と目が会っ
た。多分四十雀だろう。ここは野鳥が自ら選んだサンクチュアリらしい。鳥達のさえずりに、じわーっと
痛み出してきた腰のことを忘れて耳をすませた。
 白石峠から20分、加入道山の避難小屋の青い屋根が突然目に入り、「もうそこだ」と自分を励ました。
 平坦な山頂には人が一人、私達の後からまた一人といった静かな場所で、遅めの昼食タイムをとった。
パンにチーズをのせ食べるのだが、唾が出て来ない。口の中で反芻しても一向にのみ込めない。瑞々しさ
に欠けた「高野」のネーブルの助けを借りて、ようやく一枚の大判黒パンが喉を通った。「そんなに柔と
は知らなかった」と笑われても仕方が無かった。
 だらしの無さを見かねてか、約3キログラムあるテント本体を背負ってくれると申し出があった。それ
ならここから下山せずに、大室山を回ろうという気になった。
 大室山は近そうに見えて随分としつこく、なかなか届かなかったが、分岐にザックを置いて片道5分の
距離の山頂をピストンした。今回最高(1587.6)の山頂にはもう誰もいない。それだけが新しい“山梨
百名山”の丸太標識が建っていた。ここは山梨県なのだ。時間のゆとりが無くなって来た。さあ、グズグ
ズしないで神奈川県へもどろう。
 ここからは犬越路へひたすら尾根を下る。早い早い、歩くというより小走りだ。あれよあれよと言う間に、
高度を下げていった。45分で犬越路避難小屋が目の下に見えるところまで来た。桧洞丸が正面にデンと
見え、用木沢降口の鞍部で、しばらく膝を休めた。残り少なくなった水筒からの一口が冷たくうまい。
 ここからは沢筋の下りだ。岩混じりだから浮石を気をつけよう、スピードを抑えよう、転倒してはいけ
ない、と思いつつ持ち上げているつもりの靴先を良く引っ掛ける。
 11月に行った九鬼山の帰りに、禾生駅から一人旅をさせてしまった、お手製の杖が活躍してくれて、
疲れた脚も何とか持ちこたえている。枝沢を二つほど渡ったが、枯れて水が流れていなかった。途中KI
さんが気を遣って、私により多く飲ませてくれたにもかかわらず、体が「もっと水を」と求めていて、清
流が恋しい。用木沢出会まで後1.7キロの標識脇で念の為休憩をとり、捻挫予防のつもりで脚をいたわ
った。
 そこから幾らも行かないうちに支流にぶつかった。細い流れは澄んで飲めそうに見えたので、ザックを
おろして駆けつけた。ぐいっと飲んだ水は一気に体中をかけ巡って、疲れが吹き飛ぶようだ。
 用木沢出会には、四輪駆動車ともう1台が駐車していた。まだこれから下山する人がいるのだろう。舗
装された林道に出てから、暮れなずむ中で少しピッチを上げた。最終バスの時間を調べ漏らしたこともあ
って、5時までに西丹沢自然教室バス停に着きたかった。
 バス停を遠目にみて、薄暗がりのベンチに座っている人影を認めたときは、「間に合ってよかったなァ
ー」と気持ちが緩んでしまった。5時15分が終バス時刻だった。
 今山行で、ドライバーが聞く交通情報の流れるラジオ放送を、鳴らしながら歩く単独行者に3例も出く
わした。「ありゃなんだ!」熊避けのつもりだろうか?それにしても無粋だ。「ラジオはイヤホーンで聞
きなさい」と“教育的指導”を出しそびれたが、風の音、鳥の声、沢の音など山の音をもっと楽しめば良
いのに、と言いたくなってしまうような珍妙な輩だ。一人で寂しいのだろうか?
 新松田駅前のラーメン屋で、頼んだモヤシそばに「モヤシが入っていない」とクレームをつけた一幕が、
西丹沢テント行のおまけだった。
                               緑染爺午坊
 

芋ノ木ドッケに独り寝る夜

             雲取山から長沢背稜を経て本仁田山まで (97/11/01-02)
  11月初めの連休は、誰からも声がかからず、誰にも声をかけず、この山行は武川岳・
二子山の下見以来、久し振りの単独行となった。日の短いこの時期の2日コースとして、
自分には長すぎて無理かと懸念しながらも、天候に恵まれそうなのでつい色気を出した。
 かなり前に、雲取山に雪が着いたとき、雲取山から長沢背稜に回る計画を諦めて、石
尾根を下ったことがあった。それ依頼縁が無いまま年が過ぎていた。着想は突然湧いて、
今回はここしか無いと思い込んだ。
 いつもの新宿経由をやめて、始めて西武線、武蔵野線と乗り継いで、西国分寺回りで
立川に出たまでは良かったものの、奥多摩行きの時刻を土日用の表でチェックしなかっ
た手落ちから、目の前で乗り逃してしまい、東日原でバスを降りた時点では、心積もり
4より約40分の出遅れとなった。
 前通った時には気が付かなかった湧き水が、日原の手前にあって、幽水「栃の雫」の
木札がかかっていた。二人が大きなポリタンクに汲んでいたので、名水の味見を諦めた。
 日原川林道をひたすら歩く途中、対岸の上部に目を引くものがあった。白い兎が間欠
的に次々飛び降りて来るかと一瞬錯覚をした。よく見ると懸崖に落ちている一条の滝が、
中段に窪みがあるらしく、2、3秒に一回溢れた水が白い固まりとなって、飛び出して
行く。水に勢いがある為、飛び出す時は窪みをえぐって掃き出し、カラになるからでは
ないかと観察した。それにしても興味深い滝で、滝に絡んだ黄葉の彩りもよく、絵にな
る光景だった。
 そこここで足を止めて渓流や紅葉を見回す時間は持ったが、唐松橋を渡るまでの2時
間を通しで歩いてしまった。沢への降口に数本置かれた中から、手頃の杖を選んだ。こ
れで本日のよい道連れができた。
 富田新道取り付きは、2万5千分の1地図上に正しく表示されていない。昭文社のエ
リアマップの方が正確だ。小雲取までよく整備された登りで、小鳥の声に励まされ、自
分のペースが保てて気分も爽やかだった。
 石尾根と合流してからは、賑やかな表通りに飛び出してきた、迷子のような気分にな
った。雲取山頂の標識の向こうに富士山が見え、顔を右に振ると南アルプス連山が、そ
れぞれ個性を主張するかのごとく大きく見えた。
 本音を言えば、山頂の独りは間が持たない。気の合う仲間と一緒の時は、話題も弾む
し喜びを分かち会って心もなごむ。独りもいいものだと意固地に言うのは、「無理」偏
に「慢」と書いて「やせ我慢」と読むようなものか。
 それでも一頻り眺望を楽しんでから、私にとっては初ルートになる、長沢背稜に向か
った。思った以上の急勾配を30分下って、雲取山荘で水筒二本に水を補給させてもら
ったが、指定テント地に泊まる気はなかったので、少し後ろめたかった。というのは小
屋の人が、避難小屋に泊まる人も受付をして行くように注意している口調が、素通りす
る人は遠慮しろと言う響きを含んでいるかのようだった。その男が小屋主かどうか分か
らないが、傍目にはあまり好きになれ無い人物に見えた。
 大タワを越え3時半を過ぎて、白岩ルートから来てすれ違うパーティは、一人の私が
これから何処に向かうのか興味を引くらしく、何回となく行き先を聞かれた。私の方か
らは、随分ごゆっくりですねなどとはけっして口に出さない。長沢背稜への分岐を折れ
ると、人の気配が急に感じられなくなった。そしてひっそりとした芋ノ木ドッケに、午
後4時丁度に着いた。
 10分かけてロケーションハントした結果、頂上からわずか離れて樹林に入り込み、
枯れ葉クッションの柔らかい場所に目星をつけた。邪魔な朽ち木を片ずけると、ツェル
ト一張り分の平地が確保出来た。落ち葉の褐色と朽ち木の苔色の取り合わせとあって、
渋い趣味のねぐらになった。
 平ヶ岳でテントが重くこたえて依頼、はじめて試すツェルト泊だったので、色々学習
しながらフライを張り終える間に、夕日が沈んだところだった。、辛うじて西の彼方の
薄れゆく残照を、目に収めることが出来た。
 さあ、私だけの夜がくる。
 冷気が迫ってきた。ダウンジャケットを着込んだ。手がジンジンしてきた。ストーブ
を出して、水を沸かして、まずはお湯わりで一杯といこう、夜は長いのだ。
 何故だ!いつもと違って食欲が鈍い。焼酎のお湯割りが、内側から温めてくれて人心
地ついたものの、一人の食事はどうも味気ない。何だか以前ほど独りを楽しんでいない
自分が、ここにいる。
 2日で長沢背稜を回る計画を思いついた時、誘いたい顔が幾つか脳裏にチラついたの
に、それぞれ都合のつかない事情を知っていたものだから、諦めて独りで来たからかも
知れない。
 正味6時間の歩行で疲れた体を、新品のツェルト内に横たえ、チビリチビリやってい
る内に寝込んでしまった。途中気が付いて、本格的に寝る態勢を整てからあらためて熟
睡したらしく、目覚めたのは5時45分を回っていた。なんと11時間近くも寝たこと
になる。これは寝過ぎだ。それでも一人起きた朝は、悪評高い大鼾に身のちじむ思いを
しなくて済んだ。
 ツェルトを這い出すと、葉を大半落とした雑木の林を透かして、日の出まもない太陽
の、淡いレモン色帯びた光がきらめいていた。我が家の宝、星譲一の版画「陽(林)」
の世界がそこに見えた。
 慌てて朝食を餅雑煮で済ませ、ツェルトの撤収、パッキングと気が急いて、6時30
分に出発できたが、2分歩いて杖を忘れたのに気が付き、戻ったりして自分の耄碌に舌
打ちしたくなった。
 この時は知らなかったが、後で幕営地跡に愛用のナイフを置き去りにしてしまったこ
とを悟った。ゴーダチーズを切ろうと取り出したナイフは、中味がなくケースだけだった。
 今朝、水筒の口を凍らせてしまって水が飲めず、長沢背稜を歩き始めてすぐ、口の中が
乾いてしまった。長沢山に着いたらミカンを食おうと思いながら渇きを凌いだ。
 長沢山、酉谷山と越えたあたりからポツリポツリとすれ違うパーティが出てきた。三ツ
ドッケ(天目山)の最後の登りは、深い笹をかき分け、乗り越しての下りも、避難小屋ま
で両側から木や笹が被っていた。
 楽しみにしていた「一杯水」は、しばらく雨がふらなかった為、滴りすら出ていなく、
ここで補給できるつもりで、途中景気よく飲んでしまった浅はかさが悔やまれた。
 蕎麦粒山、川乗山と長々歩い来ると、しだいに人の密度が高くなり、ポピュラーコース
に相応しかった。川乗山の頂上はひときわ賑わいを見せ、私が腰を下ろした目の前には、
外国人5人パーティが憩っていた。中の一人はBBCでよく聞くブリティッシュ・アクセ
ントだった。
 前後して川乗山を出た人達は多かったが、大ダワから本仁田山に向かう人はほとんど無
く、鳩ノ巣を下山路に取るのが、どうも普通の感覚らしかった。
 それもそのはずで本仁田山への登りは、最後と分かっていても、長丁場の後でもう足が
上がらず、山頂までの僅かの登りによれよれになってしまった。頂上のベンチで息をつく
間、目の下に散乱するゴミが否応なく見えて、躾の悪い人の多さにゲンナリしてしまった。 
 下りにかかると追いかけられるように暮れ始め、黒い林を抜けて、奥多摩の林道に降り
た時は5時を回っており、足元は真っ暗になってしまった。寝坊した出遅れの30分が効
いてしまった。暗がりで人目も無いと見て、ワサビ田から迸る水で顔を洗っていたら、前
の家から人が出てきて怪訝そうに見つめられてしまった。
 酉谷山山頂で追い付かれたダブル・ストックの青年は、前日奥多摩駅から石尾根を登っ
て、雲取避難小屋に泊まったといい、2日目は川乗山、本仁田山を通って奥多摩駅まで歩
くと言った。グルリと一周する発想が若いと感心した。酉谷山の直下で休んだ彼より、一
足先になった私を何処で追い抜いたのだろうか、ついに気が付かなかった。
 日暮れた道を奥多摩駅に向かいながら、芋ノ木ドッケで浸った人恋しさの感傷が、気恥
ずかしく思い出された。
                                  緑染爺午坊
 

10月10日 餓鬼岳に遊ぶ


                                      97/10/15記
 7年前の9月にテントを背負って、単独で燕から大天井、常念を経て蝶ヶ岳まで歩いたことがあっ
た。その時、燕山荘の前にテントを張り終え、生ビールのジョッキを楽しみながら 、前面左右に広が
る裏銀座縦走路から槍に至るパノラマに一人痺れていた。
 展望所のベンチ脇を偶然通った山岳部の後輩Fさんとは、24年振りの顔合せで、ビール片手にあ
れやこの話しの中から、卒業後もずっと継続して山を歩いている、昔ながらの硬派山男の姿が垣間見
えた。そのFさんが燕岳の左手奥に見える山を指して、餓鬼岳は人気コースから外れていても、味わ
いのある山ですよと教えてくれた。以来、いつか行って見たい山のリストに載ったまま、ついぞ縁が
なく時は流れた。
 10月の3連休に何処か連れていって欲しいと、ハイキングクラブの仲間から声がかかり、幾つか
の候補を篩いにかけて、最後に残ったのが餓鬼岳だった。ガイドブックには、白沢三俣からのコース
はなかなかの登り、とあったのも気持ちがそそられた。
 タクシー待ちの中から、目星をつけた二人連れに相乗りを申し入れ、運転手は夜明けの信濃大町を
すっ飛ばした。柔らかな朝日のあたった里のもみじは黄色が映え、山のもみじに期待が持てた。
 三俣からの歩き始めは色ずいた木立の中を、やがて沢沿いに、所々で上がり際の踏み板に特徴のあ
るすのこ橋を渡りながら、次第に大凪山の裾に分け入った。沢なかの道は岩、渓流、黄葉と彩りよく、
紅葉の滝、魚止の滝を越えた水場で一本立てた。
 ここからの登りは、まだかまだかと我慢のいる急坂が続き、沢登りの詰めのようだった。同じ登り
を、爽やかな印象の大学生ワンダーフォーゲル5人パーティと前後して歩いたので、遠い日の自分を
懐かしく思い起こした。中高年色に圧倒されがちな最近の山にあって、若いグループは旬の秋刀魚の
ように輝いていた。一人遅れた仲間を氣遣ってたたずむ表情は、無垢の「友情」を物語っていた。
 今回私のパートナーとなったKさんは、仲間内で好悪の感情が激しいなど、必ずしも評判の良くな
い私と、結果的に二人連れになってしまった為か幾分緊張気味で、エンジン全開とはいかないようだ。
こうして人を鏡にわが身を振り返れば、自覚している以上に「暴君」と見られているのが分かった。
 やっとのことで大凪山を乗り越すと、気持ちに区切りがついて、早めの昼食補給後は、百曲がりも
順調に過ぎ、小屋迄30分の地点で登り最後の一本を立てた。改めて見回すと期待の紅葉は影が薄く、
我が侭言えば、里に比べて見劣りがした。
 小屋裏を通り抜け、5分で餓鬼岳の頂上に立ったとき、10月10日の快晴特異日に感謝した。
薄く雪をひだに張り付けて、初冬の化粧をはじめた剣、立山に先ず目を奪われた。近くには目の前の
蓮華、針の木、右に回って爺、鹿島槍、五龍、目を戻せば烏帽子、野口五郎、鷲羽、三俣蓮華、双六、
左に振って槍ヶ岳、南岳、北穂、奥穂は遠景に、手前の燕から大天井、常念等々を目線は嬉々として
なぞって行った。
 すっかり興奮して風の冷たさをほとんど感じなかったぐらい、餓鬼岳山頂は私達に満悦の場を与え
てくれた。北アルプスに来てこれだけ恵まれた日を、そう多くは覚えていない。
 満足しきって小屋に戻ったものの、中にいるには惜しい日和で、持参の焼酎割りブランデーを抱え
て、風の避けられる日だまりに腰を下ろして、始めの一杯を味わった。隣の相棒Kさんは、一口のア
ルコールが心地良い疲れとあいまって、いつのまにか静かにまどろんでいた。
 この日の餓鬼小屋は、定員近い70人弱の人が泊まることになったが、小屋の方々の捌き振りに感
心しているうちに、夕食が終わり布団が敷かれ、行き場を心配する間もなく、ピッタリ納まってしま
った。
 次の日、起床の声がかかった時に、雪がチラついていることが告げられた。昨日涸沢小屋に泊まっ
て、今日北穂高に登るはずのMさん達5人のことが、俄に心配になって来た。自分達も朝食が終わる
まで様子を見てから状況判断をして、燕岳へ向かうか、このまま下山するか決めることにした。
 餓鬼岳周辺はほとんど雪が積もっていなかったのと、風の強さや自己流観天望気をもとに、またK
さんの体調も良さそうなのを幸いに、私達は燕岳へ向かうことにした。
 雪で湿った梯子や岩の斜面にかけられた桟道で、足を滑らせないように氣を入れ慎重に歩き、東沢
岳へと下る途中の、樹木がやや透けているあたりで一本立てた。かすかに日が差して来たのを感じて、
谷を挟んだ対面の野口五郎側山肌を見下ろすと、左から4分の1だけ弧を描いた、大ぶりの虹が薄く
かかってきた。「虹だよっ」と声を上げて振り返ると、ここまで緊張しながら歩いて来たKさんが、
この虹にほっと息をつくのが見て取れた。
 東沢乗越から沢沿いの道のはるか下に中房温泉宿が見えたが、この調子ならエスケープルートと考
えたこの下山路を、もう使う必要がなかった。東沢乗越からは急な登りになって、ジワジワ高度を上
げて行くに従い、5センチ程度の積雪が現れ、餓鬼岳から僅か離れているだけなのに、この辺の方が
降雪量が多かった模様だ。
 一旦稜線に出てしばらく強い風を受けた後、今度は岩峰を大きく回り込んで、再び稜線に出ると燕
岳が現れた。前回は燕山荘から登ったので、後ろ姿は初見えだ。踏みつけている風化した花崗岩くず
が、この山に戻って来た実感を呼んだ。山頂で昼食をするには風が冷たく強すぎて、ここまで来たの
だと納得する時間だけ頂上に留まってから燕山荘へ急いだ。
 冷えた体は、Kさんがご馳走してくれた天ぷらうどんですっかり温まり、十分に800円の価値が
あった。今まで単独行か2、3人の場合はテントに泊まることが多かったが、こんな快適で大きな山
荘に泊まる味を覚えてしまうと、懐具合は別にして癖になりそうな気がした。
 入山3日目の朝は、予報より少しましだったが、雲が厚く見通しも良くなく、半透明のガスが右に
左に吹き飛んでいた。日の出を期待してカメラを構える人達は、寒さの中で辛抱強く足踏みしながら
待っていたが、ついに報われなかったようだ。
 合戦尾根を下り始めて、薄く積もった雪に踏み後がなく、自分達が今朝最初の下山者と知った。歩
き出しでは降っていなかった雪が、合戦小屋を通過するあたりから舞い落ちるようになった。高度が
下がって寒さが緩み、雪も湿り気が多かったが、第二ベンチあたり迄来ると黄葉が増え、空から細か
く白く限りなく落ちて来る、雪片群のフィルターを通して、金色の屏風を眺めているようだった。気
持ち良く快調に進んで来た足が、この光景にピタッと止まってしまった。
 こうやって山は季節が入れ代わるのだ、その現場に今いるのだと一人感じ入った。今回の餓鬼岳・
燕岳の締めくくりが、芝居の幕引きのように印象的で季節感に溢れ、滅多に出会わない良いシーンだ
った。  
 700円で中房温泉の湯船に浸かり、湯上がりの缶ビールを飲み干す頃には、Kさんの表情から
「来て良かった」と、満ち足りているのが分かって、連れ出した私も少なからず安堵した。
 この山との出会いに感謝。
                                  緑染爺午坊(24A 吉田)

赤木沢溯行

 96年9月31E齊藤
費用
上野-->富山 急行能登 7500
富山-->五百石 地鉄 670
五百石-->折立  タクシー (15,500+1700)/3
薬師峠天場代 2泊 1,000
折立--->有峰口 バス 2,100
有峰口-->富山 970
富山-->東京 長岡まで特急、長岡から新幹線 12,700
計 30,670 高い!!

・ 記録
・ 9月12日 天気晴れ
8:50 折立発
10:10 1860m
11:00 1930m
12:08 太郎小屋 
13:00 薬師峠テント場設営
・ 9月13日 天気曇りのち雨
5:00起床
6:00テント場発
7:00薬師沢途中ベンチ
7:50薬師沢小屋 靴修理 渓流足袋に換える
9:25赤木沢出会い
10:35 立て15m滑め滝上
11:50 源流草付き
12:55 赤木岳・北の俣間
14:30 帰幕
・ 14日 雨のち曇り
4:30起床
6:20撤収出発
7:35 1870m
8:25 折立
・ 11日23:58発能登で上野発通勤客で満席。熊谷でやっと1ボックス確保。12日富山で有峰口まで切符を買おうとしたら折立までのバスは金土日祝のみだけだから五百石か上滝からタクシーに乗ると良いと言う。五百石から2人組と相乗りで折立へ。北陸電力がダム建設時に道を造ったそのつけ回しを未だに払うトンでもなくひどい凸凹状態の有料道路料金1700円込で17200円。滅茶高い!一人だったらと半分ホッとするやらあきれるやら。天気は良く太郎まで3時間ちょいで着く。薬師峠に二泊分の天場代千円を払い、峠に設営。テントは二張りだけだった。あくる朝は曇り天気は何とか持ちそうだ。ピカピカの立派に整備された木道を薬師沢小屋に向う。途中登山靴のコバを取られてとうとう靴(ローバー・チベッタ)が壊れてしまった。学生時代から20ン年履いた靴が。グッスン。小屋で渓流足袋に履き換え、修理具を借りて応急措置をしたあと上の廊下に入る。さすがに水量が多く黒部の本流の威厳が有る。おもに左岸を辿り、所々で徒渉する。偽の巻き道が幾つか有り、無駄骨を折らせる。よっぽどの所以外はザブザブ徒渉した方が早い。と言う内にゴルジュのへつりが連続し、結構緊張する。その後しっかりした本物の巻き道が出てくる。これは間違えようがない。赤木沢出合いはゴルジュになっていて出合いの滝を登りたい人は泳ぐしかなさそう。左岸を巻いて降りたところが赤木沢の綺麗な滑め床。赤木沢は評判通りの明るい沢で好感が持てる。時折ポツポツと雨が降るがさほどではない。上流には何段かの滝も見える。ここ迄来たら上に抜けるだけと気合を入れ、水流も少なくなった沢を気持ちよくフリクションを利かせて登る。淵を持った滝が二つばかり有るが、よく探せば巻き道が見つかる。結構滝に近づいた所にあって、これまた気持が良い。雨が継続的になる。滑め滝がいくつかあって、今度は大きな垂壁に音を立てて飛沫を上げる大瀧に出会う。左岸のブッシュの小尾根に少し隠れているが堂々たるもの。その小尾根に付けられた巻き道をブッシュを掴んで登り、トラバースすると滝の上。水流が大分減り二股に出るが、水量3:2で少ない右側がルート。2万5千図ではこの上にも滝があるが、ままよとそちらに入る。赤木岳と赤木平の鞍部を目指す感じである。滝は出てくるが皆難なく越せる。すぐに源流の様相を呈して来て、どんどん上がる。途中から草付きに出て赤木岳を目指すが、高度が上がると風が出てきて濡れた衣服にはこたえる。稜線に出ると黒部側からの風が情け容赦なく体温を奪っていく。北の股を越える頃には歯の根が合わず、ひたすら太郎への道を急ぐ。バタバタはためく薬師峠のテントにもぐり込んで焜炉を空だきするが、震えが止まらない。この夜は一晩中がたがた震えて一睡もできず下着を着る。夜半には風が止み、14日は雨の中撤収。9時のバスに間に合うように往路を駆け降りる。折立では天気恢復。やはり太郎から降りた人と話をすると、薬師では雪が降ったそうである。寒かったわけだ。帰りのバスは2.1k円。