ヒマラヤ紀行(ネパール・メラピーク6476m登頂)

                  平成12年4月27日~5月14日
                              16M 石松隆夫
ルート図

初めに

 今まで二回ネパールのヒマラヤに行きました。学生時代から山に登っていた私は一生に一度でもヒマラヤに行ってみたいと思っていましたが何年か前に「松本ヒマラヤ友好会」という会を新聞で知り一緒に日本のアルプス等に登りヒマラヤに行くようになったのです。松本市はネパールのカトマンズ市と姉妹提携の関係にあり「松本ヒマラヤ友好会」もこのような環境の中で山の好きな仲間が集まってできた会で登山のほかに、シェルパ族の子弟に奨学金の支援などもしています。
 一回目のヒマラヤは3年前の4月から5月にかけてヤラピークという5500mの山でしたが、ネパールが何から何まで珍しく、また慣れないこともあって下痢をし、やっと山に登った状態でした。二回目はゴーキョピークという5400mの山で、世界一の高峰エベレストが間近に見える感激の山でしたが、この時も出発一ヶ月前からの風邪が直らず、苦しい登山でした。今回は今までより1000m高いので体調には万全を期した積りですが、実際には昨年の冬スキー場でぶつけられた左膝が未だ完全には治ってなく正座ができない状態でした。唯、相当に良くなっていたので何とかなるだろうとの気持ちでした。昨年一年間メンバーの人達と月に一回ぐらいの割でアルプスに登り、今年の1月と3月には冬山のトレーニングで富士山に登頂してきましたが、43年前の学生時代に登った頃と比べて体力の衰えを感じざるを得ませんでした。いづれにしろ仲間16人との出発はもう決まっています。4月27日の出発に備える日が続きました。
 
出発

 4月27日朝2時過ぎに家を出て車で松本へ。友好会の鈴木会長宅に車を預け、会長と仲間の4人でタクシーで松本駅そばの東急ホテル前へ。
ここから貸切りバスで4時半出発。途中幾人かを拾い、友好会のメンバー16人全員名古屋空港に8時に到着。ここでアルパインツアーサービス(株)のツァーコンダクター亀田・佐々木両氏(2人とも山のベテラン)が加わり総勢18名になりました。友好会のメンバーは男10名女6名で、男の最高齢は67歳です。
空港発10時のキャセイ航空で香港へ。ここでロイヤルネパール航空に乗り換えカトマンズ着、夜の8時半でしたが、時差が3時間15分あるので実際は13時間45分です。夜の到着なので町の明かりが点々と輝いていますが、以前から比べると何となく明るくなった気がします。空港には松本との姉妹都市の担当部長が出迎えてくれ、白い絹のスカーフと綺麗な花のレイを懸けてくれました。これはネパールでの人を迎える時の儀式なのです。夜の町を差し向けられたバスに乗りホテルに向かいましたが年々この町は綺麗になっていると思いました。これは立派になっているということではなく、毎朝道路を掃除している為なのです。其の分人も道路を汚さなくなったのだと感じました。官庁街を通り、王宮の前を通って我々の宿泊するシェルパホテルに到着です。町は殆どがレンガと木との組み合わせの建物で生活風景は江戸時代にタイムスリップしたような感じですが、ホテルの前は4車線の道路に乗用車、三輪タクシー、四輪タクシー、自転車、バイク、バス等入り混じって走っています。ホテルは近代的ですが、生水、生野菜等は禁物です。
 夕食は飛行機の中で済ませてあるので明日以降のスケジュールを確認し、各人割り当てられた部屋に入りシャワーを浴び寝るだけです。一部屋に二人ずつで、私の相棒は同じ年の茅野八ヶ岳山麓の友人林氏で、これから先のテント(二人用)生活も含めずっと一緒になるのです。お互いに気心も知れていて良かったということになりました.。彼は千葉の市川市の人ですがリタイアしてから春から冬になるまで八ヶ岳の別荘に住み畑と山の生活を楽しんでいる人間です。しばらくぶりに会ったいった我々二人は今までのこと、明日以降の山のこと等話をしているうちに眠りについてしまいました.。

4月28日

 今日は「松本ヒマラヤ友好会」の目的の一つカトマンズ市長への表敬訪問が午後3時にあるので午前中はカトマンズ市の郊外、バスで40分のところにある町キルティブールに見学に行きました。ここにはシバ神を祭ったパイラブ寺院があります。丘陵地帯に家が立ち並びバスを降りて狭い路地を登って行くと数百年前に建設された寺院がありカトマンズ市内に有るいくつかの寺院と同じような作りと見られました。子供達は学校に通っているようですがこの日は休みなのか寺の境内で遊んでいましたが、ここの町に限らず山の中の町でも子供達の目が大きく輝いているのが印象的でした。昼は一旦ホテルに戻りホテルの前の中華レストランで食事をしましたが、この町としては我々の口に良く合うものでした。
 尚、ホテルでの朝の食事はパン食のバイキングです。

 午後3時には市長(ケシャブ・スタピット氏)の公邸に表敬親善訪問しましたが、市長は挨拶で「ネパールは世界と交流があるが、その中で日本が一番です。祖先が昔立派な寺院を建ててくれたが、今の人達にはそんな気持ちが無い。皆さんがこれらの遺産を認めてくれると我々も守らねばと思うようになります。皆さんが来てくれると我々も嬉しい、これからもぜひ来てくれるよう願います。」等の話があり鈴木会長からは「会」がNPOの法人登録が出来これから奨学金等の支援もし易くなった」等の説明が行われました。夜は我々と市の関係者、ラジオ関係者等総勢39名で交歓会をレストランで開催しました。料理はネパールカレー風味の焼肉(余り辛くない)と煮こみビーフンでした。これから山に入るには丁度良い料理ですが、個人的な見解からするとネパールの料理は中華とインドの中間的なもので味も中途半端な感じがします。種類も沢山あると思えません。ともかくセレモニーは終わり、いよいよ明日からはメラピーク登山に出発です。あまり買い物する時間も無いのでネパール紅茶をツアーコンダクターに予約しておき、登山の帰りに受け取ることにしました。
 明日は6時起床7時出発です。寝る前にホテルにおいて行く荷物と山に持って行く荷物を仕分けし、更に自分の背負うザックとポーターにもたせる分に別け一段落です。
 
4月29日

朝5時半起床、枕に置くチップは20ルピー、日本円で32円です。  昨日と同じ朝食を6時にし、7時には空港に向けてバスで出発。空港からは16人乗りのセスナ機で全員乗れないため二組に分かれて登山の出発地ルクラに向かいました。飛行機の窓からは雪をかぶったヒマラヤの峰峰が遠くに見え、すぐ下には急な山の斜面に千枚田のように畑が耕され、麓からは多分天にも届いているようにみえるだろうと思えます。
 40分の飛行でルクラにつきましたが、飛行場は山の斜面を其のまま利用しレンガぐらいの石を敷き詰めた200mぐらいの滑走路があるだけで、着陸する時は斜面を登り、がたがたしながら停止するのです。

 ルクラは山の斜面に出来た数百戸のシェルパ族部落の一つでヒマラヤ登山に欠かせないシェルパ達の部落でもありロッジも沢山有り100mほどのメインストリートの両側はみやげ物、登山用品店(とは云ってもヒマラヤ登山で使われた中古品)が並んでいます。裸足の人も多く、道路は勿論舗装は無し、車もあるわけ無しの山の中です。2時間ほど待って後発の2番機が到着し、ここで初めてシェルパ・ポーター達と合流しました。
シェルパの親分のことはサーダーと言いますがアン・ダヌー氏でアメリカ隊でエベレストにも登ったつわものですが、腰の低い42才の働き盛りです。広場にシートを敷き、キッチンポーターの作った昼食をしていよいよ登山の開始です。登山隊の構成を説明すると我々「松本ヒマラヤ友好会」の16名、アルパインツアーサービスの亀田・佐々木の2名、登山ガイドのシェルパ7名、荷物担ぎのポーターは、食事係りのキッチンポーターを含め61名、総勢約86名(登山の最後では61名)の大部隊です。この大部隊は一団で移動するので無く先ずポーター達が一番に出発し、我々は何時も最後になります。ポーター達は目的地に一番先に到着し、テントを張り食事の支度をして我々が到着するのを待つのです。登頂のための最終キャンプ設営までほぼこのスタイルが維持されました。たいていのヒマラヤ登山はこのスタイルで行なわれますし、特に大人数の場合シェルパとポーターの力を無視して登山を考えることはできません。また彼らの誠実さがヒマラヤ登山の魅力の一つでも有るのです。
 登山の出発地ルクラは海抜2800m。明日以降は4580mのザトワラ峠というのを越えて3500mまで下り、そこから登りつめて6476mのメラピーク登頂予定は5月6日です。  通常のヒマラヤ登山は高度に慣れるため一日に500mぐらいずつ高度を上げていきます。旅の始まりから高度障害の出る高さの峠には多少の不安も 感じますが今のところ全員元気一杯で、自分達の背負うサブザックは大体10キロぐらいです。部落を過ぎるともう山の中で日本の山と変わらない感じですが緑の山の向こうには6000mクラスの峰峰が輝いていて我々を圧倒します。初日はのんびり4時間ほど歩いて海抜3500mのチュタンガです。この辺はネパールの花、石楠花(ラリーグラス)が赤・白・黄色と咲き乱れ、背丈も大きいのは7・8mあります。
 キャンプ地の周辺はヤク(ヒマラヤの高地でしか住めない毛の長い牛に似た動物)を数頭飼っている農家の小屋が一軒あるぐらいで、ここから上も大 体似たり寄ったりでした。この辺は海抜も高くなっているので夜は寒く、支給された寝袋と毛布を使いますが更に自分のフリースを着込んで寝るぐらい です。上に行くに従いだんだん寒くなり三日目ぐらいからは自分の持参した寝袋を間に重ねて使い、アタックキャンプでもこれで間に合わせることが出 来ました。

 明日は今回の登山の山場の一つザトワラ峠越えなので夕食を済まし8時に就寝です。以前日本の初めての登山隊がこの峠を越えた時メンバーの一人が ひどい高度障害にかかり先に進めなかったという事実があるのです。ただ其の当時は高山病に対する知識も少なく対処療法も現在より劣っていたことも あります。現在はダイナモックスという新陳代謝を良くする薬により高度障害にかかりにくくすることができ、この錠剤を朝晩飲みます。その代わり夜 小便に多い人で三回ぐらい起きなければなりません。それなら水を飲まなければという事にはならないのです。水を沢山飲まないと新陳代謝にならない のです。私は一回で済みましたが、
寒くなるに従い寝袋からの出入りは厄介なものでした。
    
4月30日

 5時半起床。しばらくするとテントの外でキッチンポーターがモーニンと声をかけ朝の紅茶を差し入れてくれます。また少しするとアルミの洗面器に温かい御湯を入れてくれますが顔を洗うのはこの時ぐらいです。

 これが終わると朝食で、この日はおじやとインスタント味噌汁、野菜をゆでたもの、目玉焼きとチャパティ(パンを薄く焼いたようなもの)、その他コーヒー、紅茶、緑茶等で、調味料、お新香等も日本からのものです。尚この日の昼はうどん(塩味)、チャパティ、海苔の巻いた一口サイズの餅二個でしたが私は三個食べるほど食欲は十分です。

 7時に出発し、石楠花の森の中を登って行きますが見上げると森の果てたところから上は急峻な岩稜とそれに続く氷壁の峰峰が青い空に突き出ています。今日越えるザトワラ峠は其の稜線の一角にありますが前の尾根に遮られて未だ見えません。石楠花の花はキャンプした辺りが丁度盛りで高度が上がるに従い花が少なくなり木の高さも低くなり、日本のものと変わらなくなり.ました。早昼を食べ 岩稜帯に入った頃から霧が出はじめ稜線がぼんやしてき、最近降った雪の残雪が見られるようになりましたが、地形は何となく穂高の涸沢を登っているような気分です。雪は多くなり、運動靴の多いいポーター達は結構苦労しています。彼等は我々の荷物二人分と自分の荷物も背負っているわけで一人で大体40キロは背負ってると思います。急斜面を登り岩稜が林立する広い稜線に出ましたが、そこからガレた稜線を更に1時間ほど歩いてやっと2時過ぎ4600mのザトワラ峠でした。視界は幾つかの岩稜が霧の中にぼんやり見える程度で早く向こう側に下りたいという気分です。下りは南斜面になるため雪は殆ど無く視界も開けてきました。それもつかの間、再び霧が出てきて今度はあられが音を立てて降ってきました。夕方海抜4300mの開けた台地チュリカルカに到着しここでキャンプです。明日は麓のヒングコーラ河(3700m)まで下ります。カルカは放牧地、コーラは河の意味です。

 
5月1日

 午前中はたいてい天気が良く、昼頃になると山の上は雲で覆われるようになります。今日は登りは無く下るだけですが5時前に起きだし、朝食後7時出発です。
 中腹までくるとまた石楠花の森で皆の目を楽しませてくれます。雲の間からメラピークの頂と南壁が突然見えました。あわててカメラを出してシャッターを押した時には既にぼやけておりその後二度と見ることは出来ませんでした。帰り道で期待したのですがこの時もダメでした。しばらくすると斜面が急になりぬかるみと、竹のような笹薮が多くなり歩きにくく下りも結構大変です。森林帯に入りヒングコーラの谷が次第に見えてきました。 谷の幅は200mほどもあり両岸に山の急斜面が落ち込んでいます。谷に下りたところがキャンプ地コテで、森の中の少し平らな所にテントが張られています。午後3時でした。少し離れたところにロッジがあり(と言っても日本の掘建て小屋程度)ビールとコーラを売っています。河の水で冷やさないでテーブルの上に並べてあります。もっとも水で冷やすと冷たくなり過ぎてしまうのかもしれません。我々は下山するまでアルコールは禁止です。
 水の流れは大したことは無いのですが,河原は直径が何mもある岩がごろごろしています。聞くところによると以前は谷幅は現在よりも狭く牧草とお花畑が広がっており登山道もそこにありました。谷の奥には白い山が聳え氷河の末端が谷に繋がっています。その末端には小さな氷河湖がありましたが、地球温暖化の影響らしく氷河が大量に湖に落ち込み、其の影響で湖が決壊し大洪水が谷を襲ったそうです。牧草地は綺麗サッパリ流され、谷のカーブ部分は高さ20から30mも抉られており今でも時々岩が音を立てて落ちています。2年前の7月の事で、人の被害は無かったようです。もっともこの谷はキャンプ地の付近にロッジが一、二軒高台にある程度で、7月は雨季のため登山者も無かったものと思われます。

5月2日

 朝から小雨で、日本の山だと食事の用意から、テントの撤収まで、こんな日は面倒なものですがキッチンポーターのお陰で楽なものです。ポーター達は我々の全員が入れる大型の食事用テントと折りたたみテーブル・いすを担ぎ上げているのです。
 食事の時は彼等の何人かがテーブルボーイとして控えていて声をかけると料理を鍋から掬って皿に盛ってくれます。後片付けもしなくて良いのです。 彼等は我々に対して仕事とはいえ実に良くサービスをしてくれます。彼等は自分達のテントは持たず岩陰を使うだけで、テントを使えるのはシェルパだけのようです。
 出発は7時で、河原は歩けそうも無く森の中の踏み跡のような道をヒングコーラに沿って遡ります。雨はすぐに止みしばらく歩くと大きな石のある河原を歩くことになりました。両側は鉄砲水で削られ崖の状態で大石が落ちてくる危険があるため少し離れて歩きます。11時にゴンデジュン(4135m)という所に着き、この辺りから草原の上を歩けるようになり周りの山を見ながらのんびりした気分で歩きます。周りに見えるのは5000から6000mの白い峰峰です。2時半にキャンプ地ターナ(4356m)に着きました。ロッジが数件有りビール・コーラ等が店の奥に並んでいるのが見えます。コーラは中国製の缶入りで日本円で230円、カトマンズでは17円だったそうです。
 ここに来るまで何組もの下山してくる登山者と出会いました。2.3人から5.6人のヨーロッパ.アメリカ人のグループで皆数人のポーターを連れていますが我々みたいな大所帯で高年者(気持ちは若い)のいるパーティはメラピークに関しては初めてのようです。ここしばらく天気が続いているため彼等は皆素晴らしい登頂が出来、エベレストやマカルーの8000mの山の展望を興奮気味にしゃべっていました。ただ一組不運にもポーランド人のパーティは頂上直下100mの所で強風のため頂上に上れなかったと残念そうでした。我々もそんな話を聞く度に一喜一憂しています。明日はいよいよベースキャンプ地まで登りますがメラピークの全貌は未だ手前の山の壁に阻まれ見えません。
 
5月3日

 今日は出発7時半です。谷のがれ場を少し登ると、左に氷河が迫つて来、その下の氷河湖があった地を横に見ながら登りますが,谷の中の少し平らな土の上を小さな川が流れているだけで、とても大洪水を起こした湖があったとは思えません。右側の谷を上るに従いメラピークの北壁と頂上が姿をあらわしてきました。谷も開けてきて見事な展望です。何時も昼過ぎになると雲が出て山が見えなくなりますが、12時40分にベースキャンプ地カーレに到着です。周辺はキャンプ地を除き雪で真っ白です。もう4900mに来ていますが皆元気です。昼食後2時過ぎには高度に慣れるため、明日登るルートを5000m地点まで皆で往復してきました。さらに明日はここを基点としてアタックキャンプ地(5800m)付近まで高度順応のため往復の予定です。明後日5月5日にアタックキャンプ地まで登り、5月6日に頂上を目指すことが決まりました。下から見るメラピークは氷河のそそり立つ北壁が殆どですが、我々のルートは頂上から左(東)に延びている比較的ゆるい氷河を左から大きく廻りこんで登るルートです。ベースキャンプからこのルートは上部の稜線は見えますが、下のほうは未だ良く見えません。

5月4日

 今日はアタックキャンプ付近まで登り其のまま戻る予定ですが、ここから上はピッケルとアイゼンの世界で、いよいよ本番が近くなった気がしてきます。
 8時に出発し、昨日登ったキャンプ地右側の小さな急な斜面から細い尾根に取り付き細い踏み跡に沿ってガレ場のような斜面を登ります。2時間弱でメラ氷河の末端に出ここでアイゼンをつけます。急斜面を少し登ると斜度が緩くなり広大な氷河が頂上の尾根に続いているのが見えます。5400mの地点まで来ました.。アタックキャンプは5800mですが、今日はここで引き帰す事にします。1時にはキャンプに戻ってきましたが、その後は明日以降の打ち合わせです。、アタックキャンプには十分な荷物を上げられないので登頂用品以外はベースキャンプに残して行くとか、テントは今までの二人使用から三人での使用にするとか、ザイルパーティの組み方、頂上までの所用時間とか細かい事まで打ち合わせは続きました。

5月5日

 出発6時40分。昨日のルートを取り氷河末端の急斜面を登り、昨日登った最高点を通過しメララという雪の峠に10時過ぎに着きましたが、尾根が広く道が付いてるわけでも無し地図でわかるだけです。この辺からは展望が素晴らしく、周辺の山が目の高さになっています。アタックキャンプの設けられる尾根の途中にある岩稜も良く見え、其の少し手前を10数人のパーティが登っているのが点で見えます。氷河地帯のため小さな幅30から60センチほどのクレパスが時々口を開けています。覗いても深くて下が見えません。アルパインツアーサービスの佐々木氏に云わせるとヨーロッパ人は氷河地帯に入る
と、クレパスの危険を知っているためすぐにザイルを付けるが、日本人は氷河登山の経験が無いのでザイルを付けないでルートを外れたりするとのことで、私も実は写真を撮るためそれをやってしまったものでした(写真は自我自賛するほどの出来映えです)。斜度はあまりきつくないのですがこの辺から結構時間がかかり昼過ぎからは霧が出て頂上は見えなくなってしまいました。岩陰の5400m地点のアタックキャンプについたのは2時40分で、8時間かかったことになっります。周りは雪面と霧でテントの周辺しか見えません。ここの平らな良い場所は、先ほど上のほうに点で見えたパーティのブルーのテント六張りに占領されていました。我々が其の前を通過するとテントから顔を出した男がいました。イギリス人とのことで、明日のアタックは彼等と一緒らしいのです。

 我々のテントは彼等の裏側、雪も付かない崖の棚みたいな所にばらばらに張られました。それでも食事用の大型テントだけはテーブル、椅子は無くてもどうにか張られています。ここのキャンプに留まるのは我々、クライミングシェルパとキッチンポーターだけで、荷担ぎのポーター達はベースキャンプに下りました。彼等は我々が明日頂上を目指して出発の後、下から再び上がってきてキャンプ撤収の準備をします。明るい内に夕食を済まし、明日のための打ち合わせをします。ルートの確認、ザイルパーティはシェルパを含め一組5人でそのメンバーの確認です。ザイルパーティは4組作り各々にシェルパがつきます。私の組はテント仲間の林氏、堀金村の尾日向玲子さん、乗鞍岳の下、安曇村の次田洋子さんで、全員、以前のヒマラヤ行でのメンバーであり国内のトレーニング山行でも一緒でお互いに気心が知れている仲間です。打ち合わせが終わり自分達のテントに戻りましたが、今迄の2人と違い今晩は3人のためか、明日の起床は1時半なのに中々眠れません。明日の朝の予定は出発が3時なのです。毎晩のことですが、例の高山病予防薬ダイナモクスのお陰で12時ごろ小便に起きます。外は真っ暗ですが気温は5800mの高所の割には高そうでアタックの時は厚着しなくても良さそうだと思いながらヘッドランプで岩場を照らし適当な場所で用を足してテントに戻りました。
 

5月6日

 何処のテントもあまり良く眠れなかったらしく、1時頃からごそごそ音が聞こえます。我々のテントも起きてしまい、出発の準備をします。今日はキッチンポーターのモーニングコールはありません。外は真っ暗で雪がぱらついています。ヤッケを羽織りヘッドランプを付け、あとアイゼンだけを付ければ出発できる完全装備で食事テントに入ります。食事はおじや、一口大の焼餅に海苔の巻いたもの2個とインスタントの味噌汁ですが、これで腹八分ぐらいにはなります。これ以上食べると消化できなくなってしまいます。昼食は昨日既に袋で支給されていますがキャンデー、チョコレート、ソーセージ、クッキー、チーズ等です。私は別に自分で持ってきたカロリーメイト(400カロリー)、ゼリー状ドリンクカロリー食(200カロリー)も一緒にザックに入れました。食事が終わると各自の持ち物、ルート、予定登頂時間の確認等を行ない、登頂時間に付いては遅くとも12時前には頂上に登っていないと帰りが問題になる、出来れば6から8時間以内で登頂したいとアルパインツアーの佐々木氏の説明がありました。高度差は700mで、これは日本の山であるならば4時間はかからないで登れるはずです。半分以下の酸素の中だと我々にとってはこのくらいの時間は必要になってしまうのです。
アイゼンを付け既に決まっている5人のメンバーでザイルパーティを組みます。
トップはシェルパのニマで、次ぎが私、この後に尾日向、次田、林の順です。
既に雪は薄っすらと積り全体が白一色の中ヘッドランプの明かりが頼りです。
3時20分、4組のパーティが出発です。パーティとは別にルート工作のシェルパが2名先頭を登って行きます。昨日先にテントを張ったイギリス隊のテントはは静かで先に行った気配はありません。
 少し登ると雪の降りが強くなり先頭は踝ぐらいまで新雪に潜るようになりました。天候は明らかに悪くなっていて時折稲妻が光り良い気分ではありません。氷河に覆われた広い尾根は初めの15から20度の斜面が次第に急になり長く続いていて技術的には問題ありませんが幅数十センチのクレパスが所々にあり注意が必要で、其の為にもザイルで繋がっていて誰か落ちても引き揚げられるようにしているのです。体調は良いはずなのですが、テントを出た時から身体と足が重く、初めて経験する高さと薄い酸素のせいかと思いながら登ります。出発してから一時間半経ちこの頃は既にヘッドランプが要らないぐらい明るくなっていてますが、天気は思わしくなく全員真っ白の状態でラッセルは続きます。先頭のラッセルをしているシェルパも動きが鈍っています。
 サーダーのアン・ダヌーからこの状態では登頂は難しいだろうが、後1時間か2時間登り、ダメならそこで引き返し明日再挑戦する積りで登るか、またはこのまま引き返すか、の提案が出されました。私は天気が悪いから仕方ないし、皆の意見に従おう、しかし再挑戦は難しいのではないかと思いました。しかし空を見ると一部明るい所も見えるのでも少し登リそこで決めようということになり、再び登り始めました。ここで体調の優れない男性一人と女性2人が下ることになりアルパインツアーの亀田氏がガードして下りました。6100mの地点でした。しばらく登るうちに雪が止み、前方が見えてきました。いつのまにか向こうにメラピークの頂がおわんを伏せたように見え、後ろを振り向くと、エベレストやマカルーの8000m級の山が迫って見えます。周辺の山々は目の高さぐらいになっています。6300mで7時半でした。風も無く強い光がまぶしく感じられます。
急な斜面も一旦緩くなり再び少しづつ急になっておわん型の頂上に繋がっています。我々のザイルのシェルパは若くて元気なので、彼のペースに其のまま合わせると、こちらのほうが参ってしまうので時々私のほうから、「スローリー」とか「ショートストローク」とか声をかけるのですが一向にペースが落ちません。仕方ないので向こうが速くなると私は彼のザイルを引っ張ることにしましたが、頂上迄これは続きました。最後の登りは100mほどの急斜面で最大45度ぐらいあります。当初はここにザイルを固定する予定でしたが、雪がさほど硬くないのでパーティ毎ザイルに繋がってそのまま登ることにしました。私達のパーティーが先頭になりました。先頭のシェルパのニマがアイゼンを雪の中に蹴込みながら斜面を真直ぐ登って行きます。私もピッケルを深く雪に刺し込み、遅れまいと息を切らせながら登ります。下のほうからザイルを引っ張るので止まって一息入れます。ニマも止まります。やがて頂上のタルチョ(万国旗みたいに小さな色のついた旗がひもで繋がれている。宗教的なもの。)が20mほどに近づいてきた時、初めて登れたと思い大きな声が出ました。頂上の手前でニマは私を待っています。私は彼に、彼のお陰で我々はここまで来ることが出来て有難うと御礼を言い握手をしてから自分を繋いでいるザイルをカラビナから外し頂上に立ちました。次々と尾日向さん、次田さん、林氏が登ってきて握手の連続です。他のパーティも上がってきて彼らとまた握手です。代表の鈴木氏も上がってきました。3年前からここに来る計画を立て皆で少しづつ実行して来たことがここで実を結んだと思うと「やった−」という感じです。ニマとザイルパーティーの写真を撮り、全員の写真を撮ったり、エベレストの写真(右写真参照)を撮ったりと約30分の頂上滞在は短いものでした。しかしここで何かを食べるほどの食欲は無く、ゼリー状カロリー食を飲むだけでした。

              幾日にち登り来たりしメラピーク、
                        頂に立ち我は報わる
              来たからは登らずんばと省みず
                        わが身鞭打ちこの頂へ 
              頂にザイル結びし仲間達、
                        握手握手で時も過ぎ行く

 11時10分、下山開始です。この時は既に周辺の山からは雲が多く沸きあがっていました。しかし天気は持ちそうです。頂上直下の急斜面は固定ザイルを張り、ザイルにぶら下がるようにして下りました。下りはパーティのメンバーが入れ替わり、アルパインツアーサービスの佐々木氏を先頭に我々男4人が続きます。
 日中の気温のため雪が柔らかくなりアイゼン爪に雪が団子になって付きバランスが悪くなります。登りの時はあまり感じなかった斜面が下りになると意外と急なのです。しばらくして林氏が疲労気味になった為、私と林氏が遅れて行くことにしました。急斜面は大体終わっておりクレパスを注意すれば、あとは踏み跡が付いておりアタックキャンプに戻れます。斜面が雪原のように広くなりましたがアタックキャンプは意外と遠く感じられ中々近づきません。3時頃キャンプ地に到着しましたが、その時は我々が朝迄使用していたテントは既にたたまれベースキャンプに下ろす準備が出来ていました。
イギリス人のテントはなく彼らは朝の天候が良くなかったためそのまま下山したとのことで、我々は本当に幸運だったと感じました。暫くして後からのパーティも到着し、ここでジュース、フルーツ(缶詰)、ラーメン、フルーツポンチ等を食べ20分ほど休んで再びベースキャンプに向け下り始めました。先程途中で分かれた5人のメンバーで出発したのですが林氏の体調が良くなく、又途中から私と二人遅れて下ることになりました。ポーターが幾人も我々二人を追い越していき、前後に人影が見えなくなりましたが、雪に付いた踏み跡が導いてくれます。雪が無くなる前の最後の急斜面は固定ザイルが張られてあり(登りではザイルは使用しなかった)そこを下って雪のない岩と土の交互に出てくるガレ場に出ます。少し行くとぬかった水溜まりがあり踏み跡が消えてます。登るときには無かったものでしたが、その後雪が降って水溜まりになったと思われましたが、左の方に踏み跡を見つけたのでそこを行くとガレ場の中に消えてしまいました。その頃から霧が出始め遠くが見えなくなっていましたが、我々二人はルートは左に違いないとばかり、左に向かって下りました。突然雪の付いた壁が目前に現れルートは右だったと気づいたときは、上まで戻る体力は無さそうでした。そこでガレた急斜面を下り気味に右へ右へと広い尾根を三つほど横切りながら見覚えのある地形を尾根を探しましたが、又急斜面の尾根にぶつかってしまい、そこは一旦したに下ってから回り込んで行きました。すでに雪が降り始め暗くなり遠くは見えません。林氏はヘッドライトを照らしています。やがて目の下に小さな緩い尾根が現れ近づくと少し積もった雪の中に微かに道が見えます。尾根の向こうは広いカール状の谷になっています。谷川のせせらぎの音が微かに聞こえます。雪と暗さで下は見えませんが何となく人の声も聞こえるような気がします。道は尾根通しに左に向かっていますがまっすぐガレ場の急斜面を下ることにしました。しばらく下ると突然下からがんがんがん……と、どらの音が聞こえます。これは明らかに鍋をたたく食事の合図で、馴染みの音でした。我々のパーティではないかもしれないけど、正直ほっとしました。既に暗闇で我々が怒鳴っても静まりかえってます。さらに下ると明かりが一つ見え 、やがて二つになった頃動く明かりが見えます。林氏が怒鳴りながらライトを振ると、気が付いたらしく向こうもライトを振りますが声はなく、何か変だと思いながら下りました。やっとライトの明かりの届くところまでたどり着き我々のキャンプ地だと確認できました。先ほど下から明かりを振ってくれた人は近所にある小さなロッジの客らしいと気が付きました。時計をみると8時で、聞くところに依ると本隊は6時半に着いており我々二人は勿論最後でした。本隊の人たちも疲労のため、各人のテントに入ってしまい、殆ど食事にも集まらなかったため、我々が居ないのにも気が付かなかったのです。我々二人は皆が心配しているものと思い込んでいたので拍子抜けしましたが反面ほっとし複雑な気持ちでした。食事を勧められ牛丼とスープを食べましたが、他の肉や野菜は疲れのためか食べられません。林氏は食事ができずテントで横になっています。今日は素晴らしい登頂でしたが危険な一日でもありました。

  5月7日 

 朝6時起床。昨日の夕方降った雪が解けずに谷を白くしていますが快晴です。テントも真っ白です。昨日の登頂と暗い中をさまよってキャンプにたど り着いた時のことが何か夢のようでした。昨晩下ってきたルートを目で辿ってみると下から見て正規のルートは谷の右手を下ってくるべきところ、右か ら左の方にだいぶ逸れて下ってきたのが分かりました。つまり正規のルートを通り過ぎていたのです。一晩寝たせいか一部食欲のない人も居ますが、皆元気です。これからは来た道を引き返すだけです。出発間際シェルパ、ポーターを加え全員で写真を撮りました。なんと60人です。ルクラを出発したときはもっと大勢でした。思い思いに再び来るか分からないメラピークとベースキャンプカーレに別れを告げ8時20分出発です。例の決壊した氷河湖の横のがれ場を通り過ぎるとまもなくターナのキャンプ地です。12時前に着いてしまいました。もうここからはメラピークは見えません。もっと先へ進めそうですが、まだ先には4580mのザトワラ峠が控えているので余裕をみているのです。午後はゆっくり休養です。

  ドーム型テントに二人13日、昔に返る良き仲間かな

テントのパートナー林氏とは入山から下山まで、迷子まで一緒で、このようなことは学生時代でしか経験できなかったことでした。

5月8日

 朝5時半起床。快晴。出発は7時40分。今日はザトワラ峠の手前登り口コテまでです。行きは鉄砲水洪水後の大岩のあるヒングコーラ(川)の河原をさけ、山肌をへずるように上がりましたが下りは河原のわずかな踏み跡沿いに行きますがこの方が楽です。所々洪水跡の崖から岩が崩れ落ちるので崖のそばの道は要注意です。のんびり下っているうちに12時40分コテの森の中のキャンプ地です。  のんびりしてましたがポーター達が倒木をかき集め盛大にキャンプファイヤーを始めました。小雨が降ってきましたがたき火を囲んでネパールや日本の歌を歌い暗くなっても歌声は消えませんでした。

5月9日

 雨も上がりヒングコーラ(川)の対岸の向こうは頂上は見えないがメラピークの白い南壁が輝いています。食事をして6時45分出発です。河原のがれきの中を少し下りザトワラ峠の登り口に来るとそこから先は雨でぬかった急斜面が待っていました。細い竹藪とぬかるみの上がり下りを繰り返すうちやっとラリーグラス(石楠花)の森に入り、桜草も咲き乱れ皆の気持ちも和んできました。急斜面のジグザグを繰り返しているうちメラピークの頂上と南壁が見えるところまで来ましたが雲で全く見えず残念でした。水の流れの谷間で昼食をとり、ザトワラ峠直下のキャンプ地チュリカルカ(4280m)に4時です。 森も終わり、広い谷のがれ場の中で眺めの良いところです。他にテントを張っているパーティがありました。彼らはメラピークに登り損ねたイギリスの人達でしたが、彼らは陽気で登山そのものを楽しんでいる風です。
 
5月10日

 起床5時30分。出発7時30分。いよいよザトワラ峠の登りです。山の上は雲で覆われています。標高差は250mほどですが気が緩んでいるせいか結構きつい登りです。霧の中にたくさんの岩がそそり立ちそこの間を縫って登ります10時15分に峠につき帰路のルクラ側をみると晴れていて白い山々が連なって見えます。ここから北側に下るのですが行きに通ったときは雪が岩に着いている程度だったのが最近の雪が30から40センチも積もっています。堅い雪ではありませんが重い荷物を背負ったポーター達もいるので、急なところは固定ザイルを張り、それに捕まって下ります。カール状の谷の雪の急斜面に出ました。
 登りの時は雪が少し着いている程度のがれ場でしたが、雪ですっかり様子が違っていました。シェルパが先に立ち斜めに下り踏み跡をつけていたので私を含め数人の男性はそのまま下りましたが女性やその他の男性はアイゼンを付けて下るほどでした。300mほどのこの斜面を下ると雪はなくなり、緊張がほぐれたところで昼食です。ここから下は石楠花の花の森になり谷のずっと向こうが登山基地のルクラがあると思うと皆の気分もだんだん和らいできます。2時15分にはキャンプ地チュタンガに着きました。行きには気にも留めませんでしたが、ここには小さな農家が一軒あり、家庭菜園程度の畑とヤク(羊のように毛の長い高地に生息している牛の種類。ちなみにここは海抜3080m)が6頭ほどいるだけです。山にはいると地図の上では地名が記されていますがそこにはこの様な農家が数軒か、小さなロッジがあるだけです。ロッジと言えば我々は今回テントと食料持参、シェルパ、ポーターを大勢伴った登山でしたが、外国人は友人、男女の二人ずれ等、少人数でポーターを連れロッジも利用し効率的に動いているように見られます。明日はルクラなので倒木を集め最後のキャンプファイアを焚きシェルパ、ポーターも一緒に遅くまで日本や、ネパールの歌を歌いました。
 
5月11日

 昨日は曇りがちでしたが今日の空は快晴です。ここは谷間のため朝日は当たりませんが海抜3100m迄下ってくると暖かく感じます。起床5時30分。出発7時30分。周囲の風景がだんだん日本の山の中にいるような感じになり山道が二人並んで歩けるぐらいになります。ただ遠くを見るとヒマラヤ特有の白く険しい山々が輝いています。10時15分、軽飛行機に乗ってきたルクラに帰ってきました。久しぶりに沢山の人と家を見ます。飛行場のすぐそばに広場があってそこが今日のキャンプ地です。登山はここで終わり皆お互いに労をねぎらい、無事を喜び合いました。今日はゆっくり休養と村の繁華街の散歩です。食事をしてから、3年前5500mのヤラピーク(メラピークではない)に登ったときのシェルパ頭ダワ・ギャルゼンの店があるのでそこに行って鈴木会長達とコーラをご馳走になり昔話に花を咲かせましたが、今日は4時頃から近くで祭りの踊りがあるので是非見に行ってくれとの話になり早速出かけました。日本人が大勢来たのでダワ・ギャルゼンの顔でいい席に座らせてもらったのは良かったのですが、時々坊さんが舞台を横切るだけでいっこうに始まりません。5時半頃まで待ったのですが夕食のこともあり、しびれを切らして満員の会場を後にしました。
テント生活も明日の朝で終わりになります。  

5月12日

 起床5時。食事6時。快晴です。山での最後の食事はおじや、焼いた餅、コーヒーの日本食で残り物の整理でしたが最後まで我々の口に合うものが多く、これで体力の維持が出来たと感じました。自分たちの荷物を整理しシェルパ、ポーター達と別れの挨拶をし100mほど向こうの空港内で時間待ちです。シェルパ頭のアン・ダヌーは最後まで我々を見送ってくれています。エベレストのベースキャンプまで行って来たという外人もいてなかなか賑やかです。次々に軽飛行機が飛んできては客を降ろし、カトマンズに戻っていくうち、我々の乗る15人乗りの飛行機が2機飛んできました。9時ルクラに別れを告げカトマンズまで30分です。飛行機から見えるヒマラヤの一角ランタン山群の白い峰峰が印象的でした。  カトマンズ空港からは迎えのバスで例のシェルパホテルに帰ります。15日ぶりにシャワーを使い体の垢を落とし、着ているものはすべて着替えます。不思議なことにヒマラヤの高地では汗をかいても空気が少なくて乾燥しているためか、体があまりべとつきません。下着靴下等は3回ほど替えただけで、頭がかゆくなることもありませんでした。午後は林氏等とショッピングですが、以前にも2回来ているので特に買うものもありません。 夕方7時から市長の公邸で登山の成功と、親善友好のレセプションをしてくれるので出かけます。石作りの大きな建物があり、300坪ほどの花と樹木の茂る庭にテントを張り、市長夫人と二人のお子さん、市の職員も出席して歓迎してくれました。初めに市長が英語で挨拶し、松本ヒマラヤ友好会の会員で日本語の達者なルック・ミニさん(女性で美人)が通訳します。次に友好会会長の鈴木氏が英語で挨拶するので時間が掛かります。、ネパールの酒、ジュース、ネパール風味付けの野菜、肉、ライス等をご馳走になりました。最後に日本やネパールの歌です。

 いよいよ明日は帰国です。
 
5月13日

 午前中は旧市街地にある旧ハヌマンドカ(王宮のこと)にチャーターのバスで行き、9階建ての塔に登りました。ここは先代の王様が住んでいたところで100年ぐらい前からの写真や古い調度品が飾られていて、建物自体は釘を使わず木材を組み合わせて作られています。塔の上からは市内が一望でき素晴らしい眺めでした。昼は戻ってきて日本レストランの「富士」で食事。鯖の味噌煮、豚カツ、冷やしうどん等です。午後からは又バスでブラニランダと言うところにいきました。ここには池の中にビシマ神(毘沙門神の語源)が蛇の上に寝ている像(5m)がありお祭りみたいに賑わっています。帰ってから夕方の食事は日本人登山家(山岳同志会高久氏)経営の「バンバン」ですき焼き、焼き鳥等で腹を満たし、カトマンズ空港からロイヤルネパール航空で出発です。上海経由で大阪関西国際空港に着いたのが5月14日11時30分でした。ここでアルパインツアーのガイド佐々木氏、亀田 氏とお礼と別れの挨拶を交わし、我々はチャーターバスで松本まで6時間、私と林氏は車を鈴木会長の家に取りに行ったところで、お赤飯をご馳走になり、自分の車を運転して上田の家に帰ってきたのが夜8時でした。
 帰りの飛行機の機内食のせいか、家に帰る頃から腹の具合がおかしくなり、家の正露丸等では直らず、すぐに医者に行くと面倒になりそうなので我慢してましたが一週間経っても直らないので、結局近所の病院に行くと、栄養剤を注射され抗生物質を交えて薬をくれました。次の日には直っていました。体重は出発前63キロありましたが、帰国直後は54キロに減っており、現在徐々にもどっているところです。
ルート図

                               完 
                          平成12年9月3日
                              石松 隆夫

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