甲斐駒ヶ岳尾白川遭難報告
本文は嘯雲4号の遭難報告を写したものです。
山の危険を認識し、類似事故を防ぐため、ここに再掲載させて頂きます。
亡くなられた吉田裕さんのご冥福をお祈り致します。
《経過》
昭和42年の秋慶早戦休日の山行計画は最初、船木と吉田による南ア奥西河内沢であったが
剣岳における春山の荷上げを11月3日〜5日に行なうことになり本山行計画もそれに従って
変更された。その結果、船木・吉田隊は甲斐駒ヶ岳黄蓮谷より鋸岳への縦走を行なうことになった。
黄蓮谷までは尾白川渓谷道を行く予定であった。
《計画》
メンバー 船木(応用化学科三年)
吉田 裕(管理工学科一年)
場 所 南ア甲斐駒ヶ岳黄蓮谷遡行、鋸岳への縦走
日 程 10月26日(木)夜行新宿発
10月27日(金)韮崎(バス)白須−駒ヶ岳神社−尾白川岩小屋
10月28日(土)岩小屋−黄蓮谷遡行−駒ヶ岳−六合小屋
10月29日(日)小屋−鋸岳−角兵衛沢戸台川−戸台。
28日雨天の場合停滞し、29日に黄蓮谷を遡行し、黒戸尾根よりそのまま下山。
27日早く着いた場合瀑流帯まで行ってみる。
登山本部 樋口
現地連絡所 なし
個人装備 ズボン(毛)、力ッターシャツ(毛)、毛下着上下予備、靴下2組予備、雨具、セーター、
ジャンバー、毛手袋、軍手、帽子、水筒、懐中電灯、ナイフ、時計、磁石、地図、筆記具、
細引、マッチ、呼子、新聞紙、ちり紙、三角巾、包帯、非常食、ピンミル、メタ小2、
ローソク2本、ブラックテープ、山靴、靴ひも、予備ビニールシート、わらじ2、たび、食器、
弁当二食、身分証明書、現金三千円、シュラフカバー(船木)オーバーズボン(船木)
雨具のズボン(吉田)
隊用装備 ナイロンザイル赤40m、捨繩、ハンマー2、ハーケン(縦四横三)、ビナ5、薬品(外傷のみ)、
ガソリン1L、スイスメタ、ガソリンバーナー、コッヘル、ツェルト、炊事用具一式、ラジオ、天気図。
食 糧 三日分
尾白川周辺概念図
《遭難発生まで》
10月26日 曇
23:45 新宿発。列車はすいていて楽に眠れた。
10月27日 雨
4:00 韮崎着。ガソリンと肉を買うために船本単身町へ出る。その間吉田は駅で寝ていた。
ラジオで朝の気象通報を聞く。台風の接近を確認したが東方洋上を抜ける見込みとのこと
であった。
6:55 バスで白須へ。朝食をとる。
8:10 駒ヶ岳神社へ向う。吉田が先を歩く。途中で耕耘機にのせてもらい竹宇まで行く。
分岐点で日向林道に入り途中で道を誤認したことがわかる。土地の人が駒ヶ岳神社への
道を案内してくれた。
9:00 駒ヶ岳神社手前の岩小屋。ここで天候を考え今後の行動を協議。これ以上雨が強くなった
場合、計画を中止するつもりで天候の様子を見る。尾白川渓谷道は最近手入れされたばか
りで道も広いことを現地で確認した。時間的にも黒戸尾根コースより早い。雨はしとしと降る
程度で今後も悪化のきざしは見えなかった。川の増水もほとんどなく、又、秋の尾白渓谷の
紅葉は素晴らしいとのことで吉田が藤谷道を行くことを主張、船木もこれに同意する。
9:30 岩小屋を出発。吊橋の下を飛石づたいに右岸へ渡り、ここより藤谷道を進む。
11:30 不動滝高まきの途中で10分間休み、リンゴを食う。
12:40 ひょうたん淵を過ぎて最初の徒渉点を左岸へ渡った。徒渉点は船木が指示し船木が先に渡
り飛石づたいに水につかることなく渡ることができた。増水はわずか5cmであった。そこの岩
小屋に入り昼食。
13:00 昼食を終え出発。道は左岸の河原の中についていた。黒戸沢出合を過ぎてすぐに道は右岸
に移る。この第二の徒渉点も飛石づたいに行った。道は鞍掛沢出合を過ぎ桟道となって一枚
岩の上を沢へ下り、対岸へ渡るようケルンが対岸に積んであった。
14:00(推定)1/50000地図「韮崎」で道が右岸から左岸へ渡っている場所(推定)。ここは鞍掛沢
出合より50mばかり上流で連続してナメ滝が落ち、通称梯子滝といわれているところである。
徒渉点はそのナメ滝の上部である。
これまでの二回の徒渉では必ず立ち止まり、船木が場所を選定し、船木が先に渡っていた。
今回も船木は上流の幅約4m、深さ約10mで底が砂礫の場所を選定しそこを渡るよう指示しよ
うとしたところ、先行していた吉田は指示を待たずに対岸へ飛んでしまった。その時船木は
一枚岩から沢に下り切った点におり吉田との距離は約3mくらいであった。
場所は一見容易に飛び越せそうであったが、ナメ滝の落ちロであり幅約1m深さ30mで水流
は比較的速く、底がー枚岩で茶色の苔がはえていた。この時は雨は降っていたが小降りに
なり雨具をつけてもつけないでも大差がない状態でわれわれは雨具はつけたままであった。
雨雲は切れて、下流の方は両側の尾根の上まで見えていた。吉田は一気に対岸へ飛びつこう
としたが沢の中で一歩足をついた。その途端に足を払われた恰好で頭を上流にして3mばかり流
され、滝の中の岩に左手でしがみつき右手を挙げ「船木さん、船木さん」と数回叫んだ。
船木はザイルがザックに入りきれず風呂敷に包んで手に持っていたので急いでその一端を
投げることができた。吉田はそれにつかまったがそのザイルはとっさに投げたのでー本のまま
であり、それをひっぱると吉田の手からすりぬけてしまうおそれがあった。実際にひっぱってみ
るとずれてしまうので、船木はザイルを吉田が自分でたぐって、水の中で立ち上がるのを期待
していた。船木の当時立っていた位置は足場が悪く、一緒にひき込まれるおそれもあるので、
安全な場所までザイルを体にまきつけながら下がった。またピンになる岩や木を探したが、
近くには全然そのようなものは見当らなかった。その場所で確保しながらザイルのもう一方の
端を輪にして、そこをつかめばそのままひっぱり上げられるように配慮し、輪にした方のザイル
を投げた。この時、吉田は足だけが水流の上に出て、頭から水を浴びた状態で、そのすぐ横に
輪を作ったザイルがとどいていた。しかしながら吉田はすでにそのザイルにはつかまろうとはし
なかった。5分位そのまま経過した後吉田は手を離し流れ落ちた。途中の段でひっかかり、そこ
で体が回転していたが、こんどは頭を下にして滑るようにして滝壷へ落ちてしまった。
14:10 この時、時計を見ると14時10分であった。しばらくするとうつぶせの姿勢で、手足をだらんとした
吉田が水面に浮んできた。すでに意識はなかった。船木は水の流れていない一枚岩の上を滑り
降りて滝壷へ飛込み、吉田の服をつかんだ。しかしその滝壷は深くて足がたたないので、あわて
て岸へ泳ぎついた。この時、船木も流されかけ、無我夢中だったので吉田の服を離してしまった。
岸へはい上がって、再び滝壷を見ると、吉田の姿は見えずに、サブザックが下流に流れていくの
が見えた。吉田は下流へ流れていったと思い、沢にそって100mばかり下った。そこに岩小屋が
あり、その中で濡れた服などを絞りながら、吉田が流れてくるのではないかと川を注視していた。
15:05 ここで靴下をとり替えて、不用のものは岩小屋に残し連絡のため、もと来た道を下山した。
16:30 駒ヶ岳神社通過。神社、及び、発電所には人がいなかった。
16:55 竹宇の大輸さん宅で電話を拝借。登山本部へ電話するが、不在のため、事故発生の至急電報を
吉田家へ、事故発生及び、救援依頼を登山本部(樋口)と監督(藤山)へ打つ。同時に地元の長坂
署台ヶ原派出所へ電話連絡し、東京からの連絡場所にする。
17:40 大輪さん方よりトラックを出して頂き台ヶ原派出所着。
19:00 樋口、吉田君御家族、森田OBより電話あり。この夜より雨は大降りになり台風は本土を縦断する
ということがわかった。この頃から駒ヶ岳頂上附近は雪になったらしい。
(以上 船木 記)
現場見取り図
《対策本部及び救援隊報告》 (HP掲載にあたり表にしました。ご覧になるときは横を長く取って下さい。)
登山本部 | 遭難対策本部 | 救援隊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10月27日 (金) |
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10月28日 (土) 晴れ 時々雨 |
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10月29日 (日) 晴 |
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(沢隊)
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(尾根隊)
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10月30日 (月) 快晴 |
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10月31日 (火) |
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《反省および検討》
事故後、現役学生による検討会、工学部山岳部OBとの検討会、体育会山岳部、三四会山岳部の各
現役学生部員、OBを交えての検討を重ねて、次の様な検討結果を得ましたので、御報告申し上げます。
1.我々は、今回の吉田の死を単なる、吉田の失敗で在り、吉田が勝手に飛んでしまったから滝に落ちて
しまったと考える事は、容易で在るが、此の様に考える事は、我々の責任回避で在り、今後の部の方針
に何ら糧をもたらすものでない。
2.工学部山岳部には、今回の事故に限らず、此の1〜2年の間に運が良かったので大事に至らなかった
が一歩誤まれは、死亡事故となった事故を数回続けたが、それらに対して事後、リーダー陣は何の検討
も行なっていなかった。(昭40年6月 今、冨士山にて骨折、昭40年8月合宿中数名が剣・三ノ窓雪渓に
て滑落、昭41年3月寺西、荒川東岳にて約300m滑落、昭和41年7月蔵野、船木、日比谷、涸沢雪渓にて
滑落、船木は岩に激突するも無事)
3.工学部山岳部の風潮として準備会、感想会の態度が極めてルーズであり全てが"適当に"行われていた。
亦、それを善としていた。
4.リーダー陣に自信が無く、近年増加しつつある、高校山岳部出身者に対する自信のある指導、統制が
欠けた。
5.OBとの接触の機会が少く、部員の日常がOBに良く知られていない。亦、OB会に於いても部員の指導
を藤山氏一人に委せきりにした感が在るように思われる。
6.工学部山岳部に於いて、山を謙虚に行なおうとする雰囲気が乏しく、"楽しく面白く"のムードが多かった。
7.今後山岳部として山行を続けるにあたって数回に亘る検討会に於いて顧みられた事柄に就いて、それ
を言葉として理解するのは容易であるが、身を以って理解しなければ意味がない。我々は、山登りに対し、
より真剣に謙虚に、自覚ある態度で接しなけれはならない。
《山歴》
昭和23年11月24日生る
昭和42年
4月 慶応義塾大学工学部管理工学科入学、工学剖山岳部入部
5月 新入生歓迎山行 雨飾山
根知より入山、梶山新湯を経て、雨飾山へ
6月 新人合宿 富士山
吉田大沢にて雪上訓練
日光白根から皇海山
初めての個人山行 同行原井
湯元より 日光白根山、錫ヶ岳、国境平、皇海山、鋸山 を経て、銀山平に下山
テント行
丹沢早戸川支流水沢川に遊ぶ
7月 個人山行 北アルプス、笠ヶ岳、赤牛岳、裏銀座縦走
同行原井 新穂高温泉より 鏡平、弓折岳、笠ヶ岳を経て裏銀座縦走 葛温泉へ下山
岩登り練習 鷹取山
8月 夏山合宿及び縦走
剣沢にて定着 大窓、三ノ窓、平蔵谷より剣岳、ひき続き内蔵之助平より立山を経て室堂へ下山
単独行 餓鬼岳 頂上を踏まず
9月 体育実技 南アルプス
広河原より北岳及び鳳凰
10月 巻機山
清水より米子沢遡行
個人山行
10月27日 尾白川より黄蓮谷を遡行し、甲斐駒ケ岳を目差すも、梯子滝に逝く