大学山岳部の死亡遭難事故率   (40C中田)

>実はもっと気になることもあります。
>一般にアルパインクライミングの死亡率は0.1%と言われています。

この点では、気になる話を”学生登山者メーリングリスト”で読みました。
現在、一橋大大学院生が、山岳部の遭難について考察しています。

それによると、彼が学生時代の4年間に起こった東京周辺の大学の
遭難死亡者は、10名になるそうです。対象の延べ人数は200名程度
なので、死亡率5%です。
20名に1名が死亡するということです。
彼は原因の筆頭に、少なすぎる部員数を上げています。

ここからは私の意見です。
今年の初めに農大パーティー3名の全員遭難、その少し前の成蹊大の2名と、
メンバー個人の不注意/不作為によるというよりも、パーティー自体の力量が
不足していたために発生した遭難が多いように思います。
これは、学生山岳部としてはあってはならないことです。

対象となる山行と、パーティーの力量を測ることは難しいことですが
以前のOB会は、部員の技量と山行の把握がある程度できていたと思います。
それが、長期間の遭難ゼロにつながっていたと理解しています。

OBの課題は、今の人員構成で誰がどこまでできるかの具体論でしょうか。


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《後日補足》
「事故率」
東京近郊の山岳部の活動している部員数は約100人です。
200人は人の出入り等を勘案し、原論文の著者が用いた数字です。
したがって、確率では100人で考えてください。
そうすると、山渓の事故率の倍になります。
私(著者も同じですが)は、倍になっているところに最近の学生山岳部の
固有の要因があると思っています。
この要因を軽減するためにOBは関与すべきであるというのが私の意見です。

でも、改めて数字にすると登山は随分危ないことですね。


 

OBのサポートとケーススタディー    (45B横山)


    農大パーティーの事故とは,最近船窪岳付近で遺体が見つかったものですね。
  (5/5付各紙)痛ましい限りです。中田さんのメールによりますと,少ない部員の
  中で無理をしている所が多いという事でしょうか?

    「事故は起こるもの」として対処するというのはもちろん理解できますし,必要な
  事ですが,「一回当たり(あるいは何年分か積分してもいいですが)の事故の確率」
  をいかに小さくするかがやはりまず重要と考えます。「0.1% ならしかたがない」と
  いうわけにはいきませんよね。ましてや 20 名に 1 名というのは緊急事態といって
  いいのではないでしょうか。

    連休中の現役さんの山行は実際山に行っていただいた吉田さん,伊藤さん,及び
  準備会に駆け付けていただいた川本さん,長谷川君等の御尽力で実現しました。
  皆様ありがとう御座いました。OB 会で今後どういう support 体制を作って行くか
  というのは,これから議論されていくと思いますが,その前に,比較的簡単に出来
  そうなこととして,OB 会という大組織を生かした情報の蓄積,交換から始めては
  どうかと思います。石田君の言うところの「あの時は死んでもおかしくはなかった
  という経験」は是非情報として活用されるべきものと考えます。もちろん比較的
  大きなケースは嘯雲にすでに報告されていると思いますが,それ以外の「ひやっと
  した体験」も初心者には有用な情報だと思います。現役時代の情報はもちろん,
  卒業後も活動されている方の経験も貴重です。

    昔は合宿の準備会の項目の一つに LSMS (LeaderShip, MemberShip) というのが
  あり,時々具体的な事故のケーススタディーをしていました。(十分であったか
  どうかはともかく) OB 会の「内部情報」に,それ以外の「外部情報」を加え,
  現役の方々に検討してもらえれば,経験不足をある程度知識でカバーすることに
  なるかと思います。

KSTAC 45B 横山雅彦



 

Heinrichの法則と事故に内在する原因
  (27C日比谷)

今回,事故ということに 〜40 期以降の OB 諸氏の議論が高まり
ました.松井さんの講演が一つのトリガーであるならば,企画した
者として大変,嬉しいことです.
各位の熱心な議論,大変,有り難いと思っています.

幹事会で,「OB が一緒に山に入るときの位置づけ」,
「ひやりハット的な体験の集成」のようなものを議論,企画することが
必要でしょうね.特に,後者は,皆,少なからず,経験している筈ですね.
どんなものでしょう.

労働災害における Heinrich の法則は,登山という行為においても
成り立つのだろうと思っています.
ヒヤリが 300 件,かなり危ないのが 29 件あれば,致命的なのが 1 件は
おきるという,経験則です.
そして,山の中で事故をゼロにするということは対数メモリの中で
<ゼロ>を探すのと同じことでしょう.<限りなくゼロに
近づける努力はできるが,ゼロではありえない>.
したがって,一旦,妥協が始まると,妥協を繰り返すごとに,公比が
1以上の等比級数として事故の確率は高くなると思います.
「以前の標準よりも,事故の確率を下げる努力」が,松井さんの
言っておられた「責任感を越えた使命感」に通ずることだと思います.
その意味で常に,事故や安全のことを議論し続けることが
本質と思っています.これは,工場や運輸業務などでの労働安全衛生や
交通事故災害での考え方と同じですね.

もう一つ,大事なのは,事故がおきた時に,どうしても心理的に原因を
外に転嫁したがるのですが,それをやると発展がないということです.
「自分たちの中に原因が内在していた」(つまり,部としての human
factor です)という視点に立った議論がないと,事故から得られるものは
何もありません.これは,結構,つらい議論になります.
この考え方は,ずっと継承されてきたと思います.



 

本能的に死ににくい人
  50B中村


山の事故に関する話題で盛り上がっていますね。

私は、皆さんがおっしゃっている事に加え、
「本能的に死ににくい人」というのがいるような
気がしています。

私の入っている社会人山岳会に、毎年年末から正月に
かけて20日近い日程をとって、例えば

黒部丸山東壁---立山中央山稜---剣岳八峰---
ついでにどこかで壁を登って---早月尾根下降

という山行を繰り返している人がいます。

この人と何回か冬のバリエーションにも行きましたが、
何か予想外の事が起きた時のとっさの反応が違うのです。

例えば、山の帰りにその人の車で高速道路を走行中、
追い抜かされたトラックに水をかけられ、前方が
一時的に全く見えなくなった事がありました。

その人はスピード出すのが好きなので、かなり高速
で走っていました。

しかし、その時のその人のとった行動は

「たしか道は真っ直ぐだったはずだ」と
ブレーキも踏まずに走行を続けることでした。

他にも、岩を登っていたら上から雪の固まりが
落ちてきた時(もちろんどこかの冬壁)に、よけて
バランスを失うのではなく、空手チョップで
固まりを割って事なきを得る、とか

どこかの壁で、リードしている相手が墜落した時に、確保者
(ボディービレー中)の自分がジャンプして衝撃を吸収した、
とか

このような話を聞くと、きっとこの人は本能的に
死ににくいのだと思います。

山仲間で厳しい山に通って生き残っている人は
マメな人が多いようにも思います。

日常生活でも、書類の記入ミス、机からペンを床に落す、
など、何ら致命的害のないミスを私は良くしますが、
そういった動作は山でも出てしまいます。

日頃から、ミスをしにくいキャラクターにしておくのは
山登りにも大切だと思っています。



 

遭難の確率と安全対策(案)
    (46C井坂)

本件について、日比谷さん、中田さん、横山さん、石田君、秋山君の意見を組み込み
以下の通りまとめました。

野球やサッカーで勝敗を左右するミスを例えて「致命的なミス」とか「命取り」などど
表現します。山岳部の活動では「致命的なミス」は字義道理に「致命的」になり、
そして時にはミスとは言えない不可抗力なことが致命的になることがあります。
そしてその確率は大学山岳部(最近の東京周辺の大学に限る)では4年間で10%死亡
して(引用文献1)、社会人山岳会でも40年間で50%死亡する確率です(引用文献2)。
表現を変えると大学山岳部は40人年の活動量で1人、社会人山岳会では80人年に
1人亡くなる割合になります。
これは仮に年間12回、50日の山行であったとすると、

   大学山岳部 社会人山岳会
一回あたりの死亡率 0.2% 0.1%
一日当たりの死亡率 0.05% 0.025%

ということになります。 
部員(会員)が10人と仮定すると、大学山岳部では4年ごとに1人死亡して、
社会人山岳会でも8年ごとに1人死亡する確率です。

幸いKSTACでは200人のOBに対して死亡者は4人、つまり4年間の死亡率は2%、
これは大学山岳部の1/5、社会人山岳会の1/2.5という数字です。
特に1974年以降は死亡事故ゼロの状態を継続しています。
1990年以降は部員数減少・山行レベル低下が目立ち、単純比較はできないので
事故率計算は保留します。
1974年〜1989年の期間は嘯雲6号によると130人年程度の活動量がありました。
これは大学山岳部では3.3人、社会人山岳会では1.6人亡くなっている山岳活動量です。 
しかしながら、無事故状態を維持できたのは1973年以前の死亡事故を反省し無事故を願う
関係者の努力によると思われます。 死亡事故ゼロを継続するためには、従来の体制に準じて
山岳部を運営する必要があると考えます。
具体的には、
・リーダー会,準備会,OBを交えた検討会,合宿,合宿後の感想会を一連のサイクルで実施。
・年間山行計画を関係者で共有化する。
・各合宿ごとにOBを交えて目的,メンバーの経験技量に対して適切なコースであるか議論する。
・雪山に備えて雪上訓練を最低でも新人訓練合宿・夏山合宿・初冬合宿で各2日合計6日間行う。
・雪山では初心者/経験者(現状ではOB)比率を1以下にする。
・初心者は何も知らないものとして指示する。
などです。さらに挙げるなら、
ハインリッヒの法則を考慮して、ヒヤリ事例、小規模事故を共有化し重大事故を未然に防ぐ。
・他大学山岳部、社会人山岳会の事故を学び教訓とする。
・とっさの判断に優れる「死ににくい体質」を習得する。 (具体的な手法は今後の課題)
これらが崩れて雪山・アルパインを目指せば他大学山岳部レベルで死亡事故が起きると思います。

私個人の提案としては、
・未経験者を安易に誘わない。まず上記の危険率の理解させ了解を得る。
・未成年の新入部員は保護者に上記危険率を説明し了解を得る。
というステップが必要かと思います。
KSTACでは幸いなことに無事故が続いているが、
一般的な大学山岳部・社会人山岳会の雪山・アルパインクライミングにおける
死亡遭難事故の確率は想像以上に高い、
という認識が必要だということを再度強調したいと思います。

■引用文献■
(1) 40C中田さんが紹介された「学生登山者メーリングリストでの一橋大大学院生の考察」
(2) 山と渓谷(山と渓谷社) 2000年12月号 P226-227 「遭難の確率」 柏瀬裕之著



 

絶対安全な山登り  (19E松井)


遭難の危険性を確率で論議して盛りあっがったのを好ましく
拝見していました。一点だけ補強させていただきたいと思います。

私も皆様も同じでしょうが学生時代からずっと、山へ出掛ける時は周囲へ
「絶対大丈夫だから」と言って出発します。しかし本人は今回の議論
のように定量的とは必ずしも言えませんが、事故の確率は街にいる
時より高くなりそうだと認識して出かけます。確率が高まるにも関わらず
なぜ行くかと言えば「そこに山があるから、やまへ行くことが好きだから」
と言うわけです。
しかし「絶対大丈夫だから」と言う事で好きな山へ行くことを許してくれた
家族とか、会社の上司や関係者などでは、確率の高まることに関する
認識は本人よりずっと希薄なはずです。認識の差があります。
そして原因はともかく不幸にして事故が起こると、その人を愛していた
人たちは「本人が好きな事をしていて、事故に遭ったのだから・・・」と
言ってあきらめる情景を少なからず皆、見聞きしているはずです。しかし
これは避けなければなりません。山へ行く人も社会を前進させる重要な
一員なのですから、周囲の認識に合わせる義務があります。

今回のKSTACの遭難確率に関する議論は山へ行く本人達の間では
通用する一種のローカルな会話(本音の確率論)であって、
本人を取り巻く周囲の人たちには、今日のところ通用しないと思われます。
これは今日までのわが国の危機管理の考え方に通じます。最近まで
各地の工場などは「事故ゼロを目標に万全の対策を行っています」
と宣言し(建前)、周囲の地域社会はそれで安心して暮らしてきたのです。
しかし、JCOのような事故は起こります。
「備えあれば憂い無し」ではなく、「備えのないところは、即ち危険も無い」
と言う発想です。ところがある日突然、最近の安全管理の考え方に
基づき(欧米流です)、本音でリスクアナリシスを行い、危険確率がこれこれ
と言うようなことを不用意に地域社会へ発表すると、軋轢が生じます。
これが原因でわが国では危険性の本質的議論を関係者(stakeholder)全員
と展開しにくいと言う好ましくない状態にあります。(これはこれで大きな
問題なのですがここではサスペンドします)

これと同じで、山へ行くと言う行為を取り巻く環境には、日本社会特有の
一種の建前と本音の世界がありそうです。不可抗力によるものを含めて事故は
ゼロではないという本音と、「絶対安全」(建前)の間にはギャップがあります。
今回の議論でわれわれは自身の山行に関しての危険性を確率論として
直視しているわけで、その点は世間平均の危険性認識より一歩進んだと
評価できます。だからと言って入山する本人の周囲の人たちをも同じレベルの
確率論的な認識まで引き上げるのは、やはり当面無理と思われ、前述の例と
同じとなって無用の軋轢を生むと思われます。しかしこのギャップは可及的
速やかに解消されるべきものと考えます。

私が申し上げたいことは、周囲の人たちをも山行の危険性について確率論で
認識するところ迄引き上げて、ギャップを解消する方向ではなく、「山登り」と言う
ものの性格から実質的に「絶対安全」を達成する方向でギャップを解消する
ことが本筋、と思うことです。
好きだからと言う理由で山へ行くことを許してくれる周囲の人たちの愛情に
応える為(つまり社会人としての義務を果たすため)には、本人の安全に対する
使命感によって120%の段取りと、行動中の緊張感を持続させることにより
事故の確率を限りなく低下させ、それによって建前と本音の差を無くする(事故
ゼロ)努力が無限に求められると言うことです。入山する人の義務と考えます。
あきらめてある確率を受け入れて、「これ以下なら良いんじゃない」と言うような
甘ったれはいけないと言うことです。ましてや、周囲への建前的発言を繰り返す
うちに本人も「絶対安全」だと錯覚を起こすことなどは万が一にも許されないことで
す。
考えられる全ての段取りを行い、確率を可能な限り下げて建前と本音を限りなく
一致させる努力が、山へ行く本人達はもとより、OB会や関係者にも求められます。
理工学部生の論理的思考力と確率論を活かして、また過去のヒヤリ・ハット事例
を活かしてリスクを低減し、建前だけの宣言ではなく、実質事故ゼロを目指す
事が我々の目標です。
                            以上


 

遭難の確率の再計算
       (45B横山)


ささいなことですが,「山と渓谷」の記事の文面から察しますに,一回当たりの
確率を γ として,それを計算するのに

      ( 12 * 40 )
( 1 - γ )        = 0.5

を解いて求めているものと思われます。もともと 50 % という数字に誤差を含んで
いるためそれを勘案して,γ = 0.1 % 強という表現をしているものと思います。
ちなみにもう一桁余計に計算すると, 0.14 % 位になります。

これだと,n 回登った時の事故率は,一回の確率を n 倍するのよりは少し小さく
なります。(逆に記事のように逆算する時は,一回当りの確率が大きくなります。)
これは,つまり一度死んでしまうと,もう山登りは出来ない(もう遭難も出来ない)
ということを反映しています。



もとの仮定の不確実性がありますので,あまり計算の正確さを求める意味も
低いかと思います。

ただし,(そう言っておきながら)この確率を「活動量」(井坂君の「人年」な
どの単位で表される量,つまり,延べ山行回数と同じ)にあてはめるときは,
次のようになるかと思います。

まず前で求めた γ から,単位時間一人あたりの事故率を考えると,

γ/(1/12[年])/1[人] = 12γ [1/人年]

で,山渓仮説の場合 0.017 [1/人年] です。これは,犠牲者数の期待値でいうと,
58 [人年]に一人ということになります。40 年で 50% という数字と合わないように
思われるかも知れませんが,これは,長い時間,つまり[人年]ではなく[年]をかけて
しまうと,実際には遭難が起きて人が減ってしまうため,期待される活動量[人年]が
減少してしまうせいです。(確率と期待値の違いにご注意下さい。確率はあくまでも
40年で50%なのです。)

さて実はここからが本題なのですが,我等が KSTAC は本当に他のクラブと比べて
安全だと言えるのでしょうか? 井坂君が調べてくれた 130[人年]で事故 0 という
数字の意味を考えてみます。 これは,山渓仮説では確かに 2.3 人の犠牲者が期待
される大きな活動量です。

高エネルギー物理分野ではよく使うのですが,その他でも仮説検定などに用いられ
る confidence level という概念があります。原因の確率(ある種の条件付き確率)
とでも申しましょうか?ある仮説が 95 % Confidence level で真であるとか,測定
結果からある物理量に対して,90 % confidence limit で何々以下であるといった
言い方をします。

今の場合事故の数の分布関数は二項分布ですが,試行回数(延べ登山回数)が多
いので,Poisson 分布に近似できるとすると,結果が 0 回だった時のもとの期待値
は,90% C.L. で 2.30 以下, 95% で 3.00 以下と計算することができます。
(最近それぞれ 2.44, 3.09 とすべきだというモデルもありますが小さな違いです
ね。)つまり,山渓 2.3 に比べて 90% の信頼性で議論しても「必ずしもより安全と
は言えない」 95% の信頼性で議論すると「同じとしても矛盾ではない。」という結
果になってしまうのです。

別の言い方をすると,130[人年]で事故 0 とは,それぞれの C.L. で,

  90% C.L. 95% C.L. 
単位時間一人当たりの事故率[/人年] 0.018 以下 0.023 以下
事故数の期待値 57[人年]に一件以下 43[人年]に一件以下
山行一回当たりの事故率 0.0015 以下 0.0019 以下

を意味します。逆に,山渓 2.3 より KSTAC の方が 95% C.L. で安全であるという
ことを主張するには,最低 170[人年] 事故 0 を続けなくてはならないのです。

細田さん,吉田さんの事故を乗り越え,その後今まで事故 0 の実現に御尽力され
てきた OB のみなさんには尊敬,感謝致すばかりですが,なんと,「安心するには
まだ早い」という現実であります。

お粗末ながら,参考まで。
45B 横山雅彦


 

自己矛盾と事故予測 (50B中村)


事故の確率の話で盛り上がっていますね。
(横山さんの高エネルギー物理学者らしい
お話には感服いたします。)


さて、私自身、この話に関連して自分に自己矛盾を感じて
しまうのは、

「クライマーは、技術が向上して確保出来る安全性が
高まると、自らより困難な(つまり危険な)山登りを
めざしてしまう」

という、ある意味、救いようのない?性質を持っている
という部分です。

自ら、事故率0.1 %の場所を選んでしまう、という
ような。。。。

これを言ってはオシマイなのですが。。。。

たぶん、みんな事故率0%の山には(家族を連れて
ハイキングなどを除き)、行かないのだと思います。

僕らのやっている活動は、自ら危険な場所をわざわざ
目標に設定して、その制限の中でいかに事故率を減らせ
るか、ということなのですよね。
(もちろん、危険性そのものが山の魅力という訳では
ありませんが、魅力的な登り方には危険性の高いものも
含まれている事が多いと思います。)

このような活動を敢えて行うのであれば、事故率0%
はありえない、という事を本人も自覚し、また大切な
家族にも(不可能かも知れませんが)理解してもらう
努力が必要だと思います。

前のメールで例に出した「死ににくい体質の人」は
個人的にそのような家族に対する説明やフォローに
かんしても、しっかり行っている様子が感じられます。



さて、話が少しずれましたが、一番問題になるのは、
事故が起きる場合は、事故率を減らす以前に、事故の
可能性をそもそも把握(予想)していない場合が
大半ではないかと思います。


また、例の人と登った時の話をしますが、岩壁を
アブミで登っていた時、途中に歩いても移動出来るほど
平坦な区間が出てきて、そのしばらく先に再びアブミ登攀が
出てくるルートがありました。

私はリードしていたのですが、歩ける部分、および
再度のアブミ登攀が始まってすぐの部分、つまり
「普通の感覚だと、落ちそうにない部分」には
ランニングをとらずに登ってしまいました。

すると、あとで怒られました。

「再度のアブミ登攀で、一本目のハーケンが抜けたら、
歩いて登れた部分も全て転げ落ちて、下の垂壁の
部分まで大墜落になるではないか」

「こういうところで、危険だと感じない神経が危ない。
ここでランニングをとらないという感覚が危ない。」

言われて見ればたしかですが、私は言われるまで
気付きませんでした。何しろ、岩壁の中で、その部分
は「歩けた」のですから。


このような、その場その場での危険性の認識は
何度も危険なところに通うことで身についてくる、
という矛盾した部分があると思います。


他の事例を言いますと、、、、

黒部の岩壁を登っていた時、それまで例の人はトップで
空身で登っていたのですが、あるピッチだけ
ザックを背負って登りはじめました。

理由は、

「出だしで墜落すると、(すぐ下にあった)尖った
岩に背中が激突するから、保護するためにザックを
背負う」

でした。

こういう事はテキストには書いてありません。
これまで議論されているように、山に行く前に可能な
限りの対策を行うのは、もちろん当然として、、、

やはり、信頼できる指導者と出来るだけ多く山に通う
ことで、教科書に書いていない、野生的な安全回避
・危険察知 能力を培う、という事も大切になって
くると思います。

おもいっきり矛盾しているのですが、
「危険回避能力は、危険に遇うことで身につく」
部分があり、これが登山の「やっかいな」ところ
だと思います。

今までの話題に対し、あまり建設性のない駄文で
すみません。

私も、もとの話題に戻って、下界でOBとして
できる安全対策について考えたいと思います。