鹿島槍ヶ岳赤岩遭難報告


本文は嘯雲4号の遭難報告を写したものです。
山の危険を認識し、類似事故を防ぐため、ここに再掲載させて頂きます。
亡くなられた細田勇吉さんのご冥福をお祈り致します。


《経過》
 昭和46年度春山合宿は赤岩尾根より入山し、爺ヶ岳、赤沢岳、針ノ木岳を経て蓮華岳東尾根への縦走を計画した。積雪期の縦走は最近ルームでは行なわれていず、この合宿により縦走の難かしさ、楽しさを知り、また縦走を完遂することにより一年生の総合的な力を養うことを目的とした。
 なお、11月の初冬合宿、12月の冬山合宿は爺ヶ岳東尾根より鹿島槍ヶ岳で行ない、初冬合宿の特種池小屋に六日分(米80合、ビスケ36食、石油6L)を春山用にデポしておいた。

《計画》
メンバー 6名
       CL伊藤(電気工学科三年)、
       SL中川(機械工学科三年)、
         齊藤(電気工学科三年)、
         高田(一年)、
         川村(一年)、
         細田(電気工学科四年)
場   所 北アルプス後立山連峰(鹿島槍ヶ岳赤岩尾根より爺ヶ岳、赤沢岳、針ノ木岳を経て蓮華岳東尾根)
登山本部 樋口(27期) 埼玉県和光市
現地連絡所 狩野氏 長野県大町市
行動日程 3月14日 新宿発23:15
          15日 鹿島部落-西俣出合
          16日 -高千穂平
          17日 -種池
          18日 -新越乗越
          19日 -赤沢・スバリコル
          20日 スバリ針ノ木偵察
          21〜24日 行動スペア
          25日 コル-針ノ木岳‐蓮華岳-東尾根2500m    
          26日 下山
          27,28日 行動スペア
          29日 下山スペア
          30日 朝最終帰京
            以上15日間(行動8日、スペア7日) スペアルート爺ヶ岳東尾根、赤沢岳屏風尾根
隊用装備 E-17天幕、ビニールシート、竹ペグ30本、ナベ2、コンロ2、PTSH、敷板2、ザイル(フィックステトロン40m、ナイロン赤40m)、ハーケン(3+3)カラビナ5、ハンマー1、シュリンゲ5、赤旗6本、スノースコップ、雪ノコギリ、修理具、薬品、ラジオ、天気図30枚、雪落しタワシ、ツェルト1、石油8L



《遭難発生まで》
 3月14日 新宿発23:15アルプス10号にて出発。見送りにはOBの瀬上氏、中村氏、軽部の3名、普段に比べ少ない人数であった。差入れとしてアメ2缶、雑誌5冊、ロシアケーキ1箱をもらい出発となった。列車内では細田さんと川村で一つのボックスを確保、他の4人は他の客と4人がけ、3人がけでそれぞれ一つのボックスを占めた。夜行でもあり、十分睡眠をとった者はいなかった。
 3月15日 5:25信濃大町着、3名づつタクシーに分乗し狩野さん宅へ向う。狩野さん宅で、お茶と漬物をいただき、いろり端で、山の状態や入山したパーティのことなどをうかがいながら朝食をとる。齊藤が駅にワカンを忘れたが、出発までに届き、狩野さん宅前で体操し、6:50、中川、川村、高田、齊藤、細田、伊藤のオーダーで行動を開始した。鹿島部落から大谷原までは雪にもぐることもなく快調に進む。大谷原を出ると風が強く、一ノ沢出合附近の立では「寒い寒い」と言いながら、細田さんはポロシャツセータの上にワイシャツ、中川はオーバーズホン、齊藤は毛下着をそれぞれ着用する。西俣出合の少し手前で雪が深くなってきたため全員オーバーシューズを着けワカンに変える。西俣出合に着いて、伊、中、齊の三名で水くみ。細田さんと一年生2名は晴れ間がみえてきた中で周囲を眺めながら、雪崩の話などしていた。尾根に取り付いてからはトレースがあり快調に登る。晴れてはいるが、風が強く寒い。二本目の1900mm付近の立では雪が散らつき始め、高千穂平下約100mのテント場へ着いたときは吹雪となっていた。1日目は乾燥野菜を使わず、マトン900g、生ねぎ、ニラ、ニンニク等を使ったものであった。夜は風が強くテント入口の吹き流しが内側に入り込んできた。行動一日目の夜であり、夜行の疲れも加わり全員ぐっすり寝た。
 3月16日 3時に起床、入口から顔を出すと、星が輝き、風は無い絶好の登山日和のようだ。朝食はおじや、量としては多からず少なからず。5時にテント撤収も完了し、体操も終わって5:05、オーバーシューズ、オーバーズボン、ジャンバー、オーバー手、ワカンそれにヘッドランプを付けて出発、歩き始めて五分もしないうちにヘッドランプはいらなくなり、東の空が明るさを増してくる。西沢側をトラバースして高千穂平へ出る。高千穂平にはワカンのトレースがあり順調に進んだ。5:35の気象通報を聞くため立。日も当たり出し眼前に鹿島槍の美しい姿、遠く富士、南アルプス、八ツ、妙高、戸隠と見渡せる。気象通報が終わって出発。
しばらくしてラッセルのため、中川、川村、高田、齊藤の順序で先頭を入れ換わりながら進む。途中一ヶ所ウィンドクラストした斜面で川村の右足のワカンの爪が効かずとまどったが、ステップを切って登れる。高千穂平から二つ目のコブを高田、中川、齊藤、川村、細田、伊藤の順で進む。前の四人がコブの上の少し傾斜のゆるやかな所へさしかかったときリーダーの「止まれ」という声で全員止まり振り返ったがもう細田さんの姿は見えず、前を行く四人には、声も音もしなかったため何が起こったのかと困惑した。
 このときの会話
伊藤「中川止まれ」 全員止まる。
   「ザックを降ろして」  ザックを平らな所へ置く。
   「アイゼンをはいて」
中川「細田さんは」
伊藤「事故だ」
斎藤「細田さんは」
伊藤「事故だ。事故、細田さん滑落、下まで落ちたらしい、一年は動くな」
この後全員アイゼンにかえ、上級生は捜索に下り一年はザックを置いた所に待機した。

《滑落の横様》
 天気は無風快晴であった。時刻は午前6:35、高千穂平上部で十分間立て、5:45に出発し、それより50分の所であった。赤岩尾根高度2200mであった。高千穂平より二つ目のこぶの登りの途中であり尾根はゆるやかであった。雪面は少々クラストしていてワカンの爪が普通にささる状態であった。オーダーは高田、中川、齊藤、川村、細田、伊藤の順。
 上に平担な場所があり、高田、中川、齊藤はそこに着いており、川村はまだ着いていなかった。川村と細田さんの距離は3m程であった。滑落した場所はちょっとトラバースして登る所であった。滑る瞬間は伊藤も見ておらず、なぜ滑ったかについては、はっきりしないが、伊藤が見た時は既に滑っていた。前に転んで滑ったのではなく、後に引張られるような形で斜面に向かい滑ったが、すぐ転んで頭を上に仰向けになり、尻で滑って行ってしまった。
 伊藤は左足を一歩出し、左手を横に出して止めようとしたがちょっと触れただけで掴むことができず、止められなかった。細田さんは全然声を出さなかったので、伊藤以外気づかなかった。滑る細田さんの顔を見たが、あまり焦った様子も見えず、大ザックを背負っている為反転することもできず、ストップの動作は全然せず、そのまま下に滑っていってしまった。斜面はすぐがくんと落ちているので、すぐ細田さんの姿は見えなくなってしまった。(伊藤記)
 

《滑落後の措置について》
 協議により伊藤が上に残り、中川・齊藤で降りることになった。ワカンをアイゼンに換え、ゼルプストを付けフィックスザイルと三ツ道具を持つ。伊藤に滑落場所とその方向を聞き、下降を始める。
 滑落現場はクラストしていてアイゼンがよく利いたが、数メートル降りると良く締まった雪面となっていてキックステップで降り始める。40m程降りると細田さんの赤い帽子が落ちていて、雪面には滑落の跡が一直線に下に向ってのびていた。
 滑落の跡を辿って降りて行くと雪面に赤く血が飛び交いはしめた。150m程降りた所で滑落の跡は二つに分かれていてザックの跡はそのまま真直下へのびていて、細田さんのトレースは左に少し寄ってそのまま下の直径40cm程の岳樺の大本に向かっていた。この木の根本から血が四方に飛び散っていた。この岳樺からは雪面を滑った形跡はなく、左下の沢に向かって生えている木々の1本(約10m下)に仰向けになってひっかかっていた。コールをかけたが応答がなく、伊藤,齊藤に早く降るようコールをかけ、中川1人で現場に向かう。現場付近は腰までもぐるようなザラザラな不安定な雪質で歩きにくい。
 細田さんは背中を木に仰向けに弓形に反った形でひっかかっていた。中川が現場に着いた時(滑落後約30分)既に意識はなく、顔は血だらけで鼻と口は血で塞がれていた、耳からも血が出ていたが耳には外傷があったため、穴から出血したものかはわからなかった。確認のため脈をとったが脈はなかった。瞳孔を調べようと目(右目)を開こうとしたが瞼は硬くなっていて開けにくく、白目をむいたので中止した。
 伊藤・斎藤が降りてきたので伊藤に死亡確認を要求、協議の結果中川は高田と二人で登山本部との連絡の為下山、伊藤・齊藤は事故後の処理の為に現地に残留、救援を待つこととなった。(中川記)

《収容の模様》
 伊藤は上で待っていたが、中川からコールがあり下に下って来いとの事。下に下ると「死んでいる」、「手の施しようがない」と中川が報告する。
 伊藤・中川・齊藤で今後のことを協議する。伊藤・齊藤で細田さんを安置し、中川・高田で伝令に行くことにする。中川は上に戻り、伊藤・齊藤は細田さんの所に下る。
 脈はなく、心臓停止、呼吸停止、顔中血だらけで、耳・鼻・目より出血し、体は既に硬直していた。死を確認する。すぐ下のちょっとした平な場所の雪面を切り安置する場所を作る。伊藤と齊藤で細田さんを抱き上げようとしたが持ち上がらず、足場も不安定なのでザイルを使用する。上の太い木にザイルを結び付け、両端を細田さんの胸の部分と股の部分に結び付け、二人でザイルを引張り、上に少し上げ、下まで運ぶ。ザイルを外し、ちゃんと寝かせる。右手のオーバー手袋を取り、手を組ませる。顔を雪で拭いたがきれいにならなかった。顔にジャンパーを被せ雪を少しかけ安置する。上にビニシ・赤旗を取りに戻る。
 上には関東学院大学の方が1人いて手伝ってくれるとのこと。後からCLの人も来る。好意に甘え、川村と3人でテントを張ってもらうよう依頼する。我々は再び下に下りる。
 尾根筋を使って下まで降りる。途中赤旗を2本打つ。停止していた木に1本打つ。遺体の位置を再び確認し、赤旗を頭の部分に1本、足の部分に2本打つ。遺体が流されないように、細田さんのワカンにザイルを付け、上の太い木にザイルを張る。遺体の上にピニシを敷き、その上から雪をかけ、安置を完了する。
 上に上がり、関東学院大学の2人に御礼を言って別れる。天気は相変わらず快晴で、たいへん暖かい。下山する登山者がどんどん下って来る。(伊藤記)

《伝令》
 リーダー陣で協議の結果、中川・高田の二人が登山本部と連絡をとる為、鹿島部落に下山することに決定。
 中川稜線に戻り、高田・川村に細田さんの死亡を告げる。
 関東学院大学のハーティーが援助をかってでてくれたので、関東学院のトランシーバで登山本部へ細田さんの遭難を連絡してもらう。8:00中川・高田で高千穂平を出発、10:20現地連絡所の狩野宅へ到着、有線で大町県警を通して登山本部及び細田さんの白宅へ連絡を要請、登山本部の指示を待った。(中川記)

《OB遺体収容活動報告》
 3月16日 遺族3名を含む先発隊(蔵野、野口、今、三橋、日比谷、山本)は22:30新宿を立った。後発隊(宍戸、樋口、小林、竹内)も三田の見送りを受け23:45新宿を出発する。連休前で汽車はかなり混んでいる。車中道具の配分メンバー構成等、救助方法の打ち合わせをする。昼前遭難の知らせを受けてから汽車に乗る迄の忙しさからくるつかれで全員良く眠る。
 3月17日 明るくなると窓の外は雨。6:17大町駅につくと雨はどうやら止んだ。タクシーで救助本部の狩野氏宅に向う。黒四への有料道路の手前を右に折れると前夜の雪がかなり積っている。6:50狩野氏宅に着く。先発メンバーは、パッキングをほぼ完了している。簡単な打ち合わせの後、先発隊は現役の中川・高田をつれて出発救助本部に残る小茂鳥先生(志賀高原から直接狩野氏宅に来られた。前夜21:00大町着)と日比谷と打ち合わせ。救助は出来るかぎりOBのみで行ない、雪の状態などで現地の人の助けが必要な時は、午前中に連絡することにする。後発隊は六入用、四入用テント各一張、先発隊のシュラフ等を持って7:50出発。9:00大谷原通過。途中、水を補給して10:20西の又出合着。先発隊が一年の高田を残しすでに尾根にとりつく急登を登っているのが見える。ここに六入用テントを張り、樋口(下痢で調子が悪い)と一年の高田を残す。トランシ−バー1台を置く。オーバーズホン、オーバーシューズ、ワカンをつけて11:10出発。最初の急登はラッセルは無く、ワカンのつめもきいて快調。この頃から天候は、快晴となり気温もかなり高い。右の尾根からは、間断なくナダレが落ち、あのなつかしい落雷の様なナダレの音が冷沢にひびき渡る。14:45転落現場から30m下のテント場に着き、先発隊と現役と合流する。アイゼンにはき替えて15:10転落現場に着く。現場は急な登りを登り切ってゆるく広く開けた所で周囲に木も数本有り、スリップしてもストップをかけれは容易に止りそうな斜面である。左上を見上げると爺ヶ岳の稜線がおおいかぶさるようにせって美しい。今日は10cm程のやわらかい新雪の下がクラストしている。昨日の転落時は、全体にもっとかたくクラストしていたとのことである。落ちた方向には、12m程ゆるい斜面が続きその先は、急に落ち込んでここからは見えない。落ち際に太い木が一本生えている。現場写真を撮った後OB全員(宍戸・蔵野・野口・今・三橋・山本・小林・竹内)で伊藤を案内にして遺体発見場所に下りる。転落場所から尾根沿い50mほど下りて、そこからフィックスを張りながら沢に下る。急斜面ではあるが、木があるのでそれにザイルを固定して三ピッチ下るとテラス状のコブがあり、そこに遺体が安置してあった。そこから10m程上の細い木で止った。とのことで昨夜の雪にもかかわらず木の周囲に血こんがうかがえる。この木で止まらなけれはこの下の急な沢には、止りそうな場所も無く遺体発見は不可能と思われる。雪に埋もれた遺体を堀り起こし、16:55全員黙濤ツェルトで遺体を包み収容作業にかかる。木にかけたビナを滑車の代りにして遺体に結んだザイルを通し、それを引く組と遺体の両側について遺体を引き上げる組とに分かれてて1ピッチづつ引き上げる。2ピッチ完了したところで今日の作業を終る。この間トランシーバで本部に連絡する。テント場着19:00
 3月18日 4時起床。朝食を済ませてテントを出ると丁度御来光がすばらしい。川村をテントキーパーに残し6:10、三年生3人を含む11名で遺体収容作業を開始する。風がかなり強いが天気は快晴。前日なれたせいか作業は、予想以上に早く7:30尾根迄上げる作業を完了する。そこでシュラフに入れて搬送の準備を完全にしたのちテント場に戻って食事する。ここで樋ロと交信し、船木・中村が小型スノーボートを持って入山したことを知る。8:20野ロ・今・三橋・山本・小林・竹内が作業を再開する。残りは、テントを撤収して9:45下山開始する。高千穂平で船木・中村と合流し、現役4人は中村をつけて先に下山させる。遺体は、小型スノーボートに乗せて、OB九名で10:12高千穂平を出発。風もやみ天候はますます快晴。しかし細い尾根と急斜面の為ここから出合迄の五時間半は、すべて懸垂で下す。ザイルを張る先行隊が2名、ザイルの徴収が1名、遺体をザイルで確保するものが1名、遺体の両側について谷におちない様にルートを決めるのが3名、遺体を下から引張るのが1名に分け、遺体を上と下から確保しながら懸垂で降す。途中樋口と合流して10名となったが休みなしの作業で全員、相当疲労している。15:50出合テント場着。ここで先に下山した現役と合流しテントを撤収。伝令で下から上って来た佐田が差し入れてくれた果実のカンヅメがうまい。遺体を大型スノーボートに移し16:35出発。ここからは夏のバス道に沿って大冷沢をスノーボートを引いて出る。17:50大谷原で待っていた遺族と対面。遺体をあけてみせて欲しいと言われたが「何重にも梱包してあり、それが雪で凍りついているのと、周りが暗くなりかけていて、下山を急ぐので鹿島部落までまって欲しい」とお願いする。暗くなった雪道をスノーボートを引いて黙々と歩く。鹿島部落の狩野宅現地本部に19:30到着。今夜は大町の六角堂に安置し、明朝検死ということで遺族3名と宍戸・山本・小林・伊藤は休む間もなく遺体と共に車で出発。20:00六角堂について豊川と合流。遺体を安置して21:50より通夜を行なう。遺族は遺体と共に六角堂に泊るとのことで、我々5人は近くの林旅館に引き上げる。22:40旅館着。
 3月19日 前夜鹿島部落に泊ったOB、現役全員は現地本部を撤収して9:00大町の六角堂に集合し9:30より検死開始。検死後警察へ出頭し、調書を提出し借用した道具を返す。11:30六角堂へ戻って焼香し11:50遺体と遺族3名、宍戸、中川、伊藤で六角堂を出発する。松本でドライアイスを買いたし、甲州街道・中央高速を経て20:00狭山の細田家へ到着。遺体を安置して遺族に事故の状況を詳しく説明する。その夜は細田家へ泊る。翌朝帰宅。(OB宍戸記)

・遭難現場概念図


《行動記録》
3月14日 新宿発アルプス10号(23:15)
3月15日 狩野氏宅発(6:50)大谷原(7:45-8:00) - 一ノ沢出合(9:00) - 西俣出合手前ワカンにかえる(9:45-10:10) - 西俣出合水くみ(10:15-10:30) - 1700m(11:50-12:20) - 1900m(13:15-13:25) - 高千穂平下部テント場着(13:45) -就寝(18:00)
 天気:鹿島部落(曇り)大谷原(小雪)西俣出合(晴れ)1700m(雲り)1900m(小雪)テント場(雪)マイナス10℃(18:00)
3月16日 起床(3:00) - テント発(5:05) - 高千穂平上部にて気象通報(5:35-5:45) - 事故発生(6:35) - 中川現場に下り発見(7:00) - 中川、伊藤、齊藤合流協議(7:10) - 中川伝令のため戻る。伊、齊現場着(7:15) - 安置(8:15) - 上に戻る(9:00-9:15) - 再び下り安置終了(10:20) - 立(10:35-10:50) - テント着(11:20) - 入幕(12:00)
中川・高田伝令隊
出発(7:35) - 関東学院大学体育会山岳部(CL原一平氏)テント場にてトランシーバ交信依頼、日大スキー山岳部を経て県警へ(7:50-8:00) - 西俣出合(8:50-9:00) - 鹿島部落(10:20)
 天気 快晴無風
3月17日 起床(9:00) - 伊・齊現場へ下る(10:45) - 中川テント場着(12:50) - 伊・齊テント着(13:30) - OB(蔵野、野口、今、三橋、山本)テント着(13:30) - OB(宍戸、小林、竹内)テント着(14:40) - 滑落現場へ向う(15:45) - 就寝(21:00)
 天気 快晴
3月18日 起床(4:00) - テント発(伊、中、齊、川、宍戸、蔵野)(9:45) - 高千穂平中村と合流(10:15-10:30) - 高千穂平下、樋口、高田と合流(10:55-12:20) - 伊、中、高、川、出発(12:20) - 1600m(12:40) - 西俣出合テント(13:40) - 西俣出合発(16:35) - 大谷原(17:40-18:05) - 鹿島部落(19:00)
中村・齊藤隊
高千穂平発(11:10) - 西俣出合(12:15-13:30)
 天気 快晴

《本部関係記録》
3月16日
 10:30 登山本部(樋口OB)に長野県警より「細田勇吉君遭難、赤岩尾根2200m地点より北側へ(鹿島槍側へ)300m転落即死、高千穂平にテントを張り伊藤他一名残る。他の者は下山。救助隊人員を集めて欲しい。及び細田家へ連絡して欲しい」旨の連絡がある。学校、OB関係の連絡を吉田OBに依頼する。各OBに対して山の装備を準備し対策本部へ集合する旨連絡する。(対策本部は、当初松室OB宅、その後藤山OB宅に変更)
 11:30 現地と連絡がとれる。
 13:00 学校関係と連絡がとれる。
 16:30 細田家御家族、樋口OBと本田技研にて落ちあう。樋口OBの車で対策本部へ向う。
 19:30 細田家御家族3名と樋口OB対策本部へ到着
 18:00〜21:00 鈴木、松室、斎藤、蔵野、野ロ、今、日比谷、三橋、 豊川 山本、小林の各OB、
     竹内、対策本部に集合

 13:00 小茂鳥部長、志賀高原・天狗の湯にて事故発生の連絡を受ける。
     樋口OBと連絡を取りつつ長野経由で大町へ向う。
 21:00 大町着
 21:50 警察と連絡をとる。現地の救助隊の出動を依頼するが不可能。
3月17日 小茂鳥部長、日比谷OB、狩野宅に残留し現地本部とする。
 11:00〜13:00 細田義一郎氏、日比谷、佐田、警察へ連絡におりる。
      スノーボート、ザイル、背負子等を借用、その他必要品を購入する。
 16:00 船木氏入山
3月18日
 12:30 豊川OB本部発
 19:30 豊川OB大町着
3月19日
 13:15 小茂鳥部長以下大町より電車にて帰京
 18:00 対策本部着 解散

《反省会》
1 参加者
  3月30日 伊藤、中川、齊藤、川村、高田、竹内
  4月1日 伊藤、中川、齊藤、川村、高田
  4月3日 伊藤、中川、齊藤、川村、高田、竹村

2 細田さんの状態
 入山前
  2月22日〜2月26日、個人山行で伊藤と涸沢岳西尾根に行ったので、トレーニングは出来ていた。
  3月11日夜〜3月12日のスキーバスの疲れが多少残っていた。
  3月14日夜行列車の中では一番良く寝た。
  体調は普通であったと思われる。
 1日目
  テント設営をいそぎ、けっこう疲れていた。
  夕めし(焼肉)のおかわりはしなかった。
  夜は皆ぐっすり寝た。
 2日目
  オーバーズホン、オーバーシューズ、オーバー手袋、ワカンを着けて出発。
  朝の体操はいつもの通りあまり体を動かさなかった。
  隊用装備はラジオ(1.2kg)、薬品(1.3kg)、修理具(0.8kg)、ローソク(0.5kg)で3.8kgと食料と個人装備でザックの
  重さは28kgぐらいであった。 他のメンバーは34〜37kgであった。
 心理状態(同期中村さんの発言による)
  細田さんに対して、OB・リーダー陣とも正面きって反論するものがいなくなって山に対して空虚な気持ちになっていた。
  合宿に参加するという強い意欲でなく、ごく軽い気持ちで参加した。下級生だけで気がねがいらず軽い気持で参加できた。
  クラブを見すてると言っていたが、最近変わってきた。細田さん自身は完全なOBと考えていた。
  合宿では完全なリーダーの支配下という立場でなく、独立的立場であった。

3 事故の直接原因
  滑落した瞬間は誰も見ていないので推測でしかないが、
   1.細田さんが上体のバランスを崩して滑った
   2.ワカンの爪が滑った
  の二つが考えられる。
  ・2に関しては事故の起きた場所は、先に通った一年生の話では、爪は普通に入り爪が滑るということは
   ちょっと考ええられないということである。
  ・しかし細田さんがおいた部分だけ特に硬くて滑ったことも考えられる。
  ・しかしワカンの爪が滑ったとしたら、普通上体は前に倒れるはずであるが、細田さんの滑り始めの格好はそうではなかった。
   以上のことより、細田さんが何らかの理由により、上体のバランスを崩し、後によろけ、よろけたワカンの爪が滑り、
  その後転んであお向けになって滑落したと判断するのが妥当であると思う。

4 事故の間接原因
a 気のゆるみ
   直接原因は推測でしかなく、断言できないが、いずれにしても細田さんに気のゆるみがあったことは否定できないと思う。
  気のゆるみを起こす要因は
  ・細田さんは赤岩尾根は三回目でよく知っていた。
  ・その日は、馬鹿晴れで気分がよく、高千穂平あたりでは、細田さんは鹿島槍東尾根ばかり見ていた。
   滑落した時もどこか他の所に気をとられていたのではないか。ラッセルは細田さんはやらないので、
   ついてゆけばよいという軽い気持ちがあった。
  ・当時かけ声は出していなかったので、他の事を考えられた。
b OBの参加
  ・この事故において我々リーダー陣が一番反省していることは、細田さんがどういう考えで合宿に参加
   するのかはっきり聞かないまま一緒に行ってしまったということである。細田さんの意志をはっきり聞
   いておけば、リーダー陣はそれなりに細田さんを扱っただろうし細田さんは細田さんなりに自覚を持ち
   合宿に参加してこのような事故も防げたのではないか。
  ・聞かなかったリーダーの曖昧さもあるし、聞けないという何かが四年との間にあったことも確かである。
  ・リーダー陣としては細田さんをOB扱いにしていたが、それもはっきり割り切れなかった。
  ・細田さんとしても完全なOBとしての気持ちではなかったと思う。
  ・積雪期のOB参加は非常に難かしく、OBは入らないものとして計画をすすめている。
  ・リーダー陣としては積雪期のOB参加は非常にやりにくい。
  ・OBが合宿に参加した時のリーダーのOBに対する責任、OBの1,2年生に対する責任も曖昧である。
c 計画に関して
  リーダー陣としては自らの計画で、自信をもって出しているので計画自体に関しては反省はない。
  ある程度ゆとりがあり、かなり一年のためになる縦走だと思っていた。
  川村:日程上で余裕がある。技術的には行けるであろうという感じ。
  高田:入山経路変更は新鮮味は出たが、赤岩尾根だけ取って付けた感じ。
  細田さんはこの計画に関して、リーダー交代の時一年を連れて行くのは無理じゃないかと発言したが、
  春山のOB会の時はもっとけしかける様な発言をした。なぜそう変ったかは疑問である。
d ルームの雰囲気
  ・感想会がいい加減になってきている。
   初冬合宿の時の細田さんの参加の仕方に関して追求すべき点が沢山あったが、細田さんが感想会に
   出なかった為、うやむやにしてしまった。
  ・ルームの雰囲気に厳しさがなくなりかけている。
  ・去年からの一連のことで矢張りいろいろと支障を来している。
e ワカン,アイゼンの使用法
  ・リーダーとしてはあの時ワカンのまま歩いたという事に関して良いと思っていた。
   しかし細田さんがバランスを崩してよろけたとしてもアイゼンならは滑らなかったことも考えられる。
   ワカン事故が起きたということは今までのワカン用法に誤りがあったのではないか。
  ・今回は今迄通りの概念でやっていた。
   少し位クラフストしていても今迄ワカンの爪をきかせて歩いていたし、ぎりぎりの所までワカンで行き、
   アイゼンに変える傾向があった。
  ・あの場所はワカンでもアイゼンでもよかった。寧ろワカンの方が歩き易かった。しかしアイゼンでも支障はない。
  ・安全度を考えたらアイゼンの方が高い。
  ・下りでの滑落は今迄伺回かあったが、登りでの滑落は初めてであり、盲点をつかれた。
  ・社会人山岳会はあまりワカンを使用していない。
  ・今後は少しでもクラストした斜面が出てきたらアイゼンに変えるべきである。
f ストップ訓練
  ・細田さんは伊藤の見た範囲では、ストップ動作もぜずに滑っていってしまった。
   今迄のストップ訓練が身い付いていず訓練の仕方に問題があるのではないか。
  ・細田さんはストップが苦手であった。去年は夏合宿の時2,3本やっただけで失敗していた。
  ・転んだら反射的にストップ動作をするようでなくてはならない。今後は上級生といえども数をこなすへきである。
  ・仕方に問題があるのではないか。
   すぐ止める訓練が身についていない。夏だと流さないとスピードがつかないので流してからストップに入るが、
   これが良くない。
  ・二年以上は雪渓上部の急な所でザイルを付けストップ訓練をやりすぐ止める癖をつけるへきである。
  ・大ザックを外す訓練
   滑り始めは大ザックを外すことを考えないが、滑ったら大ザックは捨てるものという考えを持つべきである。
   その為にザックを外す訓練もすべき。

5 事故後の処置
  ・死亡確認はあれ以上の事はできたかった。
  ・死がわかっていても傷をもっと点検すべきであった。
  ・リーダー陣3人とも下ってしまったが、一年には動かぬよう言ってあったし、場所も安全だったのであの場合仕方ない。
  ・安置はほぼ完全であった。
  ・現場の写真をすぐ取らかったのはまずかった。
  ・OBの対策が遅い。
  ・今後は警察にも計画書を提出すべきである。

6 結論
 遭難以来リーダー会を重ね、遭難についての検討をし、リーダー会で行き詰まったならばOBにいろいろと示唆を与えてもらい、本遭難についてのリーダー陣の見解をまとめるまでに至りました。
 一名の命に比すとまだまだ検討の不足している個所もあるかもしれませんが報告書の最後をくくり、新たなる行動をもって次のステップに進みたいと思います。
a 細田さんの遭難についてのリーダー陣の見解
 遭難の直接原因は細田さん自身の不注意にあるが、その背景にはルームに内在するいろいろな問題が原因しており、ルームの問題点をはっきりさせ、その一つ一つをつぶしていかない限り今後も事故はなくならない。この遭難の一番の原因は、リーダー及びルームにきびしさが久けていたということであり、きびしさがあったならばこのような遭難は起こらなかったと思う。今回、細田さんがどういう考えで、どういう立場をとって参加するのかはっきり聞かずにー緒に行ってしまった。はっきりすべき所ははっきりさせるという態度がリーダーに欠けていた。この点について明確にさせておけば、細田さんも自覚を持って合宿に参加し遭難は防げたと思う。
 四年に対してはっきりした態度をとれなかったのは、リーダー個人の性格上の欠点もあるし四年との間に気まずさがあったことも事実である。一昨年の冬山で我々が四年を追求したことによりルームがバラバラになってしまい、そこからは何も生まれてこなかった。それ以来四年に対してロを出すことをやめ話をしてもむだだという感じがあった。ともかく四年との間はいつももやもやとしており、結局最後に事故という形で端的に現れてしまった。
 クラブにきびしさがなくなってきたのは一昨年初冬合宿剣岳早月尾根からであり、それ以来感想会はいいかげんなものになった。昨年秋の個人山行岳沢での細田さんの転落については何ら討議されず、我々がリーダー陣をひき継いだ後もそういう流れに乗ってしまい、初冬合宿の細田さんの変則的な参加についても感想会で何もふれず、冬山のLSMSで一年からそのことが出たが逃げてしまい春山まで至ってしまった。
 このようなクラブの甘さは昨年10月末にリーダー交代を行たった時点で自覚し、直すべきであったが、この欠陥をはっきり意識できなかった。ここにもリーダーとしての甘さがあった。今こそルームにきびしさを取り戻すへきである。
その他クラブの欠点は
・積極性が欠ける ・活気がない ・緊張感がない
・山に向う気迫が欠けている。  ・個人山行の回数が少ない
・山の計画に魅力が欠けている。 ・事務的手続きがルーズである
これらの欠点をつぶしていくための具体策として
まずきびしさを取り戻すことに関して
 第一歩として日常生活から改善していく。
 トレーニングは、しめる所はしめてバラエティーに富んだ内容にする。
 ルームの整理、整頓をしトレ後は必ず掃除をする。道具、図書の管理をしっかりする。
 疑問に関して非常にルーズであるので厳しくする。
 準備会ではもっとつっこんだ講義を行ない、準備会で行なったことが実際に山で活かされるようにする。また合宿前に山へ行く態度心構えを聞き、なんとなくというムードを作らないようにする。新二年生は去年二年生かいなかったので、二年のやるべき事がはっきりわからないだろうから、その点を教え自覚をもたせる。山に入ってからのきびしさはリーダーいかんにかかっている。いかにうまく統制をとって隊を動かすか。そのためにリーダーが自分に厳しくなること。しまる所とだれる所の区別をはっきりさせる。かけ声をかける。
 技術的な事に関しては、リーダー陣も基礎に立ち戻って訓練し、技術の再確認をする。訓練は全員できるまで行なう。
 感想会においては小さなミスでも徹底的に追求する。感想会での討論をそれ以後の山に反映させ、その場限りの反省に終わらせないようにする。リーダー会ではお互いをぶっつけ合う。原点に戻って再考することも必要、わかりきったことでも討論する。
などである。
 その他のクラブの欠点を一つーつつぶし改善する。すなわち積極性のある、活気のある、山に向かう気迫のあるクラブ。また個人山行に多く出る、魅力のある山行、事務的手続きを敏速に。以上の案としてはまず現役間の意志の疏通をする。そのためにはルームで話したり、家に押しかけたり、伺でもよいから交わりを持つ。OBとも個人的に接触し、話し、相談などをする。またOBとの催物(テント行、サッカー大会、スキーバス)などを積極的に行う。
三田、医学部ともコンタクトし情報を交換しあったりする。日赤や日本山岳会で行う講習会に出る。
 山を広く知らないので縦走をしたり資料を集めたりして、多方面の山を知る。資料はOBから古い岳人を集めたり、ルームで山の本を買ったりする。個人山行に多く出るようにし、バラエティーに富んだ山行をする。ゲレンデに行き、コンスタントに練習する。個人山行で二年生がリーダーで出て山の難かしさを知る。また二年が出られるより努力する。準備会ではしつこく質問し、わからない所をうやむやにしない。準備会で行なった事柄を実際の山に入って役立てるようにする。実用的なことを行なう。
 事務的手続きはリーダーが期限をはっきり決めて皆に分担して行なわせる。これができなければクラブとして機能を果たさない。
などが具体案である。
b 細田さんの不注意に関しての検討
 滑落地点は技術的には易しく、滑ったことに関しては歩行技術やピッケル技術が問題となるような個所ではないので技術的なことよりも精神的なことが問題となる。これは前述したようなルームの甘さも原因している。また気を抜いてよい場所と気を抜いてはいけない場所の区別ができていない。四年間、山岳部をやってそういうことが身についていない。これはいわゆる山慣れしていないためであり、山慣れしていれば本能的にこういう判断ができるようになる。山慣れするためにはオールラウンドな山を行ない、ルートが完全にわかっているような山だけではなく、自分で考えて登るような山行をどんどん行なえは身につく。それには個人山行でいろいろな方面に出ることである。
 しかし、滑って止まれなかったこと及びピッケルストップの動作を行なわなかったことに関しては技術的な問題であり、もしあの時滑った瞬間ストップをやっていれは止まれたと思う。細田さんはピッケルストップが苦手で、三年以降はあまり積極的に練習を行なわず、滑ったらすぐ反射的にピッケルストップをするという技術が身についていなかった。これは細田さんのみならず部員皆に言えることである。今までの訓練は絶対量が不足しており、できるまで徹底的にやらせるというのではなく、質的にも問題がある。また上級生になると下級生のめんどうをみるため絶対量がどうしても少なくなる。今までの雪上訓練は新人合宿で一日半、夏山合宿で一日、合計二日半であり、ストップ訓練はその半分ぐらいを使った。雪上訓練で一番重要であるストップ訓練にしてはあまりに少なすぎる。また夏山以降はほとんど行なわないので、冬山、春山では勘が鈍っており、滑っても反射的にできない。今後、冬山、春山を行なっていくためにはストップ訓練をもっと重視すべきである。そのためにはストップ訓練はできるまで徹底的に行なう。また上級生だけの訓練山行を別に行ない上級生も徹底的に行なう。また、初冬合宿の前、秋の慶早戦の時期に富士山で雪上訓練を行なう。
 また、雪上訓練の時はストップという声をかけるくせをつける。この遭難で問題となったのはその他に、四年生がリーダー権をゆずった後どういう立場になるか今まではっきりしていなかったということがある。今までのようにOBではなく、同しリーダー陣として扱うのはリーダーとしてみれは非常にやりにくい。この際はっきりリーダー権を渡したらOBになってしまったらどうであろうか。
 また今まで四年生及びOBが参加する時、上の事故については全然考えないで事故は起こさないものとして行なってきた。しかし現実にこういう事故が起きたということは、四年、OBの参加について再考しなければならない。今回は四年といえどもメンバーであったので責任はリーダーにある。今後の四年・OBの参加に対する我々の方針は、積雪期の参加はすべてメンバーとして参加してもらう。すなわち参加するからには準備会、トレーニングは皆と同じよりに出てもらう。これは、積雪期はリーダー陣にとっても条件が厳しく戦力とならないようならとても一緒に行けないという考えからである。無雪期の参加はOB各自が責任をもって行動してくれればよく、現役としてはOBに大いに来てもらいたいし、OBの入ることで、合宿が楽しくなる。
 また、OB会については、我々がOB会に向かう時はこの計画を絶対通すのだといか感じでのぞんだ。前のリーダー陣が痛めつけられ、その感化を受けていた。しかしこのような態度であったなら、OB会は非常に味けないものとなる。今後はもっと柔軟な態度で話すべきである。
 また、OBとOB会以外での個人的な接触をして、各自お互いの考え、性格などを理解していなければあのようなOB会は意味をなさないのではないか。OB会の席上でしかOBと接触をしないというのが、いままで我々がOBに打ち解けなかった原因なのではないか今後はOBの家に押しかけたり、OBとのいろいろな会を開いたりして、OBとの接触をなるべく多くするように努力すべきである。(リーダー陣見解)

《山歴》
昭和23年4月5日生る
昭和43年
   4月 慶応義塾大学工学部電気工学科入学
      工学部山岳部入部
   5月 新人歓迎山行(会津駒ヶ岳)
      新入合宿(穂高岳涸沢周辺)
   7月 夏山合宿(槍ヶ岳千丈沢周辺)
   9月 秋山個人山行(広河原〜北岳〜農鳥岳〜大門沢)
   10月 故吉田君追悼山行(駒ヶ岳神社〜尾白川〜遭難現場) 
   12月 スキー冬山合宿(木曽御岳山)
昭和44年
   4月 春山合宿(栂池〜白馬〜白馬鑓ヶ岳)
   5月 新人歓迎山行(土樽〜平標〜仙ノ倉山〜土樽)
      新人訓練合宿富士山(富士吉田〜五合目〜吉田大沢〜富士吉田)
   6月 個人山行八ヶ岳(渋ノ湯〜横岳〜編笠山〜小淵沢)
   7月 夏山合宿 横尾谷右俣(島々〜徳本峠〜右俣テント場〜大槍北尾根外出〜上高地)
   8月 夏山合宿縦走北ア(鹿島部落〜赤岩尾根〜針ノ木岳〜東沢〜五色〜室堂)
   9月 岩登り訓練 つづら岩
   11月 初冬合宿鹿島槍(鹿島部落〜赤岩尾根〜冷池〜鹿島槍〜鹿島部落)
   12月 冬山合宿 荒川、赤石(広河原〜荒川小屋〜赤石〜荒川〜広河原)
昭和45年
   2月 個人山行 八ヶ岳(美濃戸口〜阿弥陀北稜〜美濃戸口)
   3月 春山合宿 笠ヶ岳(笠才岳南西尾根〜笠ヶ岳〜笠谷)
   4月 春山第二次合宿鹿島槍(鹿島部落〜天狗尾根〜鹿島槍〜鹿島部落)
   5月 新人訓練合宿 涸沢(上高地〜涸沢〜北尾根〜上高地)
   6月 岩登り訓練 つづら岩
   7月 岩登り訓練 日和田山
     夏山合宿 剣岳(黒部ダム〜二股・東大谷・中尾根・池ノ平・ハッ峰・北壁外出)
   8月 夏山合宿 北ア縦走(有峰湖〜薬師〜雲ノ平〜槍〜西穂〜上高地)
   9月 個人山行 北岳バットレス(大樺沢〜御池小屋〜バットレス四尾根)
   10月 個人山行 奥又白(上高地〜奥又白池〜前穂北壁・東壁四峰明大、三峰リッジ、四峰北条新村外出)
   11月 初冬合宿 創岳(馬場島〜早月尾根〜剣岳〜馬場島)
昭和46年
   2月 個人山行 西穂高岳(上高地〜独標〜西穂〜天狗岩〜上高地)
   5月 新人歓迎山行 守門岳(大白川〜守門岳〜大白川)
      岩登り訓練 双子山西岳
   6月 個人山行 北岳バットレス
   8月 夏山合宿 千丈沢(上高地〜千丈沢〜B稜、D稜、A稜外出〜上高地)
      個人山行 滝谷(上高地〜北穂南稜〜三尾根ドーム中央稜外出)
   11月 初冬合宿 鹿島槍(鹿島部落〜爺ヶ岳東稜〜爺ヶ岳〜鹿島部落)
昭和47年
   2月 個人山行 奥穂高岳(新穂高温泉〜涸沢岳西尾根〜奥穂〜新穂高温泉)
      スキー岩岳
   3月 OB会スキーバス(苗場)
      春山合宿 後立山縦走(鹿島部落〜高千穂平〜赤岩尾根2200mで滑落)