長い眠りから覚めた一つのホームソング 

                            2004.05.25 24A 吉田 浩二

慶応工学部山岳部の昭和37年度の春山合宿(1963年3月)は、山本健二
(赤山さん)リーダーの白馬岳でした。私にとっては一年生部員として、初め
ての本格的雪山経験でした。
(参加メンバーは同期に森田、中部、二年生は岩永、山田、斉藤、川崎、土岐、
三年生は山本、武田、矢頭、新OBの宮原、大森の13名)

信濃森上、落倉、栂池、神ノ田圃、天狗原から乗鞍岳を越えて、白馬大池に
ベースキャンプが設営されました。何日かの荷揚げが終わった頃、少しむくみ
が出て体調を崩しました。その日は先輩の気遣いからテントキーパを言い付
かり、一人外出を控えていました。
灰色の曇天、降り止まぬ雪の中、取り残されたようなテントに独り寝ているの
は、心細いものでした。
午前の天気予報を聞いた後、気まぐれに回したラジオ局から流れた歌は、聞
いたことのある歌謡曲でもなく、また童謡とも違い、さわやかな曲で、重い気
分を軽やかにするように、心にしみて来ました。

「目を閉じてはだめ 幸せになるなら…」

たった一度聞いただけのうろ覚えなのに、そのところのメロディが大脳皮質の
どこかに記憶されたみたいです。
合宿ではこの後日、ホワイトアウトにあわやビヴァークという経験をしたり、二つ
玉低気圧が通過し強風が吹き荒れて、三国境に上げたアタックテントが、夜中
に吹き破られるという出来事があったりしました。風傷や軽度の凍傷などびっく
りすることも多かったのでしょうか、独り聞いた歌のことなど、どこかに行ってしま
いました。

それからも長い年月、この歌のことを思い出すことはありませんでした。
それが41年後にあたる今年の2月、何かの拍子に、全く脈絡も無くこの忘れて
いたメロディが、頭の中に蘇りました。歌っていたのは、眞理ヨシコさんというの
も思い出しました。
典型的B型の癲癇気質なものですから、一度気になるとこらえ性もなくなって、
何とかこの歌をもう一度掘り起こしたくなりました。

インターネットで調べた結果、初代のうたのおねえさんだった眞理ヨシコさんは、
現在、東洋英和女学院大学の教授になられたことが分かり、不躾ながら大学
事務局気付で問い合わせのメールを出してみました。
予想したとおり、応答はありませんでした。
ところが2ヶ月程した4月のある夜、自宅に眞理ヨシコさんご本人から電話を頂
きました。

自分でも忘れていた歌なので思いの外時間がかかったが、書庫を捜して見た
らドーナツ盤の色褪せたレコードジャケットだけ見つかり、中味は見当たりませ
んということでした。
その当時は、大阪朝日放送から呉羽紡績提供のホームソングの番組があって、
そこで放送された後、コロンビアレコードからドーナツ盤が出されたものの、あま
り売れなかったようですと、ご自身の記憶を辿ってくださいました。
教えていただいた、サポートHP"音符たち"宛てに、早速問い合わせメールを出
したところ、翌日には楽譜、歌詞のコピーが送られてきました。

資料を見て始めて、「天城越え」を始めヒット曲を沢山作詞された吉岡 治さんと
「おもちゃのチャチャチャ」や数多くの愛される童謡を作曲された越部 信義さんの
二人が産みだしたホームソングだったことを知りました。
いざ手にしてみると、フラット記号が4つもついていて、私にはなかなか手ごわい
ものですが、そのうちそれなりの音を出せるようにチャレンジするつもりです。
こうして見ると皆に口ずさまれるには、少しだけ難しい曲だったのかも知れませんね。

PDFで送られた資料は、少し鮮明度に欠けて見難いのですが、添付致しますので、
興味のある方は何かの楽器で演奏するか、声を出して歌って見てください。
私はこの曲によって、いまでも白馬岳の春山合宿であった様々なことを懐かしく思い
出すことが出来ます。

それにしても人間の記憶のメカニズムは、不思議ですね。脳幹については、癌の予
防や治癒に関係しているとある本で読みました。21世紀は、脳についての研究が急
速に進みそうな期待を持っています。

つまらない無駄話にお付き合いくださり、有難うございました。
                                                謝々